2012年3月13日火曜日

草子ブックガイド(1)

Amazonにおすすめされたので、漫画を読みました。

草子ブックガイド(1) (モーニングKC)
草子ブックガイド(1) (モーニングKC)

丁寧に描いてある漫画だなという印象でした。人間が手で描いているものという温かみがありました。
お話の内容は、理想論ぽいというか、ちょっと甘めかなという気がしましたが、純粋で良いと思います。

古本屋さんから本を盗んで読んでいる女子中学生、草子の話です。
彼女のお父さんは、飲んだくれの売れない画家です。お母さんは家族を捨てて逃げてしまいました。お父さんと草子は、まともにご飯も食べないような毎日です。
彼女は読み終わると感想文を本に挟んで、古本屋の棚に返し、新しい別の本を盗んでいきます。
勝手に本を借りている女の子です。
そんなことをする割に、草子ちゃんは引っ込み思案で、おとなしい女の子です。

盗んだ本に感想文をはさんで返すというのが、いかにも青春の甘やかさと思えました。
それを優しい目で温かく見守る老店主は、ファンタジーですが、世の中にこういう人はきっと沢山いるんだと夢を見たくなる感じの人物です。

愛情とか、信頼とか、優しさが詰まった、心温まるお話と思います。
私は自分もお母ちゃんなので、草子ちゃんのお母さんは許せません。でも、もっと年をとって、もっと優しくなったら、許せるようになると思います。

個人的には、しおりの猫の話が好きでした。私もあんな猫を飼いたいです。

書き写しノート

朝日新聞の天声人語というコラムを毎日書き写すためのノートというのがあります。割と売れている商品のようです。

なぜそんなことをするんだろうと個人的には不思議です。

推察するに、特に天声人語が好きだからということではなく、毎日なにかをする習慣として、「手書きの字を書く」というのは、良いものであるし、是非やろうと思うが、毎日、自作の文章を考えるのは骨が折れる。すでに決まった内容のものを書き写すのであれば、気が楽だ。新聞のコラムなど良いのではないか。文字数は一定であるし、時事的な話題にも毎日触れることができて、ためになりそうだ。一石二鳥ではないか。と、いうような感覚なのではないかと思います。

いや、わからないです。天声人語を毎日書き写したいほど好きという人が大勢おられるのかもしれませんよ?
ただ私は何となく好きではないのです。受験の時に半強制的に読まされた経験があるせいかもしれません。

しかし、毎日何かを書き写すというのは、中世の写本僧のようで、いいじゃないか。萌えるー、とか思って、試してみました。題材は「枕草子」です。

一段目を書き写してみて思いました。
しんどいわ、これ。
なぜだろう。自分の文章なら何ページ書いても平気なくせに、清少納言の名文が疲れるというのは?
「書く」という作業と、「書き写す」という作業は、どうも何かが本質的に違うようです。
枕草子の一段目は、私は丸暗記していて、知らない文章を読みながら書く大変さは無いはずですが、でもやっぱりこれを毎日コツコツ全段写すというのは、大変な労力が予想されます。同じ文字数の文章を自分で書くほうが、はるかに楽です。

なんだろうね、これ……。
こんな大変な事を日課にしている人が大勢いるとは、驚きです。

ちなみに、書き写しに使ったノートは、アピカのCDノートブック プレミアムです。「シルクのような滑らかさ」
確かに、ツルッとした紙です。
万年筆には、そういう、ツルッとした紙がいいのだそうです。
が、書いていてあまり気持ちいいとは思いませんでした。かといって気持ち悪くもないです。私には特になんの印象も残らない紙でした。
程良い抵抗感のある紙が好きだからかもしれません。スマイソンのフェザー・ウェイト・ペーパーのほうが気持ちがいいです。他、ミドリのMDペーパーとか。
モレスキンの紙も書き心地そのものは好きなのに、ほとんどのインクが裏抜けするのが難点です。

書き心地が好きな紙で書いたら、写経も楽しかったのでしょうか。

インクはモンブランのオイスターグレーです。吸入してから時間がたったので、ペンの中で水分が抜けたのか、色が濃くなりました。

2012年3月12日月曜日

猫一匹描けねえ

娘と録画してあった「歴史秘話ヒストリア」の葛飾北斎の回を見ました。

http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/117.html

うちの違いのわかる幼児(前回記事参照)によれば、この番組は、音楽がいいので好きなんだそうです。
この番組の曲って梶浦さんだよね。さすが違いのわかる幼児(^_^;)
テーマ曲の、キラキラキラ~☆ってなるところが、特に良いのだそうです。言いたいことは何となく分かる。

さてその葛飾北斎の回ですが、面白かったです。京都で北斎展やってるって知らなくてショックでした。浪裏の展示はもう終わったっぽい( ;´Д`)

北斎が八十代半ば過ぎて、この年まで描いても、猫一匹上手く描けねえって泣いたという話にはシミジミとしました。
うまい人って目も肥えるから、自分の技量が自分の理想に永遠に追いつかないんだろうな。
それに娘のお栄さんが、「自分の未熟さに気づくのが成長の第一歩よ」とお父さんを励ましたっていうのも、只事じゃない感じですが。娘さんも絵描きだったんだな。
そういう時に「お父さんは十分上手いわよ」とか言われてもなー、なんだろうしね。

しかし、うちの違いが分かる幼児は、「おじさん絵がうまいのに、泣かなくていいのにね! かわいそうね!」とオタオタしていました。
うん、まあ、上手いよね。でももっと上手くなりたかったんだろうねー、と話すと、娘は「猫はむずかしいもんねー」と、しみじみ共感していました。
次元ぜんぜん違うのに噛み合っているかのように考えているところが子供の思考法の面白いとこです。
というか全然わかってねえし。
猫は描くの難しいよねって話じゃなくてさ!
まあいいか。

そんなことを話しながら、娘と猫の絵を描いていました。にゃーお。

日々、そんなことばかりで平和に過ぎて行くのはいいのですが、私の創作はいっこうに進まないわけで、筆も衰えるばかりでしょう。
雑文くらいは書こうかと思って、今日はこうして日記を書きましたが、わざわざ書くような話でもないので、うおー、と思います。

それが仕事とはいえ、娘に手伝ってもらってエロ絵を描いてた葛飾北斎ってすごいな。
自分の芸事のために家族も投げうつというか、遠慮なく巻き込めるぐらいの俺ワールドがある人でないとあかんな、という気が何となくします。
将来、娘に手伝ってもらってエロ小説書こうって、一ミリも思わないもんな。むしろ罰ゲームすぎて致死レベルだよ。そこだけとっても北斎スゲえって思います。
でも、締め切りギリになったエロ漫画のトーンを、マンガ描く娘にやってもらうとか、そういう猛者は案外いるんだろうけどね。なんかどっかで、親子っていう関係を、同じ道の人っていう関係のほうが、上回っちゃうんだろうね。想像だけど。そこまで芸事に身を捧げてない自分を感じるので、だからアカンのだなあとか反省もするんですが、そこを改善していいものかどうか。つくづく凡庸です。だから比較的無事に生きてられるんだろうか。偶然か?

今日は一日のうちに、すごい八十代の人のことを二度も考えました。八十越えて元気で生きてることだけでも凄いと思いますが、衰えぬ創作意欲や、向上心は、さらに凄いと思います。
世の中、凄い人ばっかりだね。

趣味の文具箱22

趣味の文具箱22を買いました。

趣味の文具箱 22 (エイムック 2352)趣味の文具箱 22 (エイムック 2352)

伊集院静さんのインタビュー記事が巻頭のほうにあり、興味深く読みました。
氏はモンブラン149(万年筆です)の愛用者とのことですが、

「小説やエッセイはボールペンで書いている。今、月に四〇〇枚の原稿を書かなければならない。できるだけ疲れを少なく、速くこなすためにはボールペンの使い勝手がまさる」
愛用のボールペンは三菱鉛筆のジェットストリーム。細身の丸軸はペンダコにやさしく、油性インクはなめらかに原稿用紙を滑ってくれる。

と、ありまして。

あれっ、て。
私、ジェットストリームだと手が疲れるので、万年筆に持ち替えたんですが、ジェットストリームのほうが実は疲れないの(;´Д`)?

そこ、自分の感覚を信じるところですか?

ボールペンだと筆圧かけちゃうので、指が痛くなるんですよね。悪いのは私の筆圧であって、ペンじゃないんじゃないかというのは、うっすら思うけど、でもどうしたらいいのか。


ところで私は、本や雑誌を見る時、気になったページには付箋をはる癖があります。
だから、読み終えた雑誌には、紙のヒラヒラがいっぱいついています。
後でそのページだけ読み返してみたりするんですが。
昨日、趣味の文具箱22の、付箋が貼ってあったページをなにげなく開いてみたら、そこに付箋を貼った記憶が全くないページで、記憶力ヤバいヤバすぎって焦ったんです。

後で分かったんだけど、それは私じゃなくて、娘が勝手に付箋を貼ったのでした。
24ページ目でした。表紙の写真に写っている緑色のペンが紹介されているページです。
アウロラというメーカーの、マーレ・ティレニアという万年筆でした。
娘に、なんでこんなとこに付箋を貼ったの? と尋ねたら、
「このペン欲しいから買ってもらおうと思って( ・∀・)」と言うので、値段を一応見たら、13万4400円でした。
椎堂オカンが一瞬でノーコメントになったことは言うまでもありません。

娘には以前、甘やかそうと思って、LAMY abcという、子供向けの万年筆を買い与えました。あれがあるやん、て諌めたら「だってあれは子供用でしょ?」と返されました。
どういう意味でしょうか。うちの子は、いつから子供じゃなくなったんでしょうか。
そんな違いが分かる幼児いらんねん。

一般に、「子供には、子供だましではなく、本物を見せよ」などと言いますが、子供に本物を見せると、本物を欲しがりますので危険です。子供はけっこう賢いのです。どっちが良いものかは、教えなくても、ちゃんと見抜きます。
だから、子供にはとりあえず子供だましのものを見せておくべきです。
私はそういうことを今回学びましたね。

赤ん坊だって、携帯電話の形をした玩具よりも、実際に通信可能な本物の携帯電話を見分けます。テレビのリモコンだってそうです。どれが偽物(玩具)で、どれが本物か、一瞬で見分けます。
携帯電話を乳幼児から守るべく、我が家では機種変更したあとの、残骸のほうの電話を娘に「ほんものだよ〜(*´∀`)」と言って与えましたが、ちょっと触ったあと、「ちばう!!」とかいって床に叩きつけられました。
そうさ、ちばうさ! どうしてわかった。
本当に不思議です。リモコンも携帯電話も、稼働中のものでなければ、乳幼児は納得しないという事実は、我が家だけでなく、どの家庭でも問題視されていることです。
この問題に解決策はありません。電話帳に登録してある友人や上司や取引先に、うっかり子供が電話をかけないようにするには、うっかり電話をそこらへんに放置しない事しかありませんが、大人は確実にうっかりします。

たぶん人間は生まれつき割とかしこいのだけど、生きてるうちに、だんだんバカになるんですよね。

うちの娘が何を根拠にLAMY abcよりマーレ・ティレニアのほうが「いいもの」だと思ったのかは謎です。子供たちと話していると、時々ほんとうに不思議なことを言う人達です。

娘が、「みどりのやつがダメなら、こっちでもいいよ♪」と、ファーバーカステルのペンオブザイヤー2012 ゴールドオーク39万9000円を指さしたので、趣味の文具箱22は、本棚の一番高いところに隠しました。

ずっと以前になんとなく書いた「木剣の時代」で、イルスの兄貴のジンが、おとんの剣を盗むシーンがありますが、なんで盗むのか何となく今さら納得がいってきた。そっちのほうが本物だからだな。仕事用のケータイを子供にとられるみたいなもんだと思います。ヘンリックも、うっかりしちゃったんだね。いまさら親近感湧くわ……。

ロカノンの世界

本を読みました。

ロカノンの世界 (ハヤカワ文庫SF)
ロカノンの世界 (ハヤカワ文庫SF)

アーシュラ・ル=グウィンは、私には大好きな作家さんなんですが、全作品を読破しているわけではなく、むしろあんまり読んでいないほうかもしれません。
「ロカノンの世界」も初めて読みました。
要約すると、はだかのオッサンが異星をうろうろする話で、こんな話だったのかと、読みながらびっくりしていました。
ル・グウィン氏の、ハイニッシュ・ユニバースというシリーズの一作で、これと同シリーズの「闇の左手」という作品は、何年か前に読んだことがあり、確かに同じ世界観(宇宙観?)の作品なのだなあと思いました。
ル・グウィン氏の作風の面白いところは、SFで、いかにもSFっぽい説明がくどくど書いてあるようでいて、肝心のところは行間を読んで空想する仕様になっているところかな。
出身の星系が違うものどうしが連合した宇宙連邦的なものが存在しているふうに書いてあるけど、それが具体的にどういうものかは書かれていないし、主人公ロカノンが降り立った世界の人々が、かなり短命であるようだけど、平均寿命がどれくらいとか、そういうことも具体的には一切書かれていない。
種族的に全く交流のなさそうな異星に、人類そっくりな知的生命体がいることの謎も、特に触れられていないし。ハイニッシュ・ユニバース・シリーズの別作品には解説があったかもしれない。
「闇の左手」で、そういうヒューマノイドタイプの異星人は、かつて移民してきた地球人の末裔なのだというような設定があったような、なかったような?

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))
闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

「闇の左手」は、とにかく寒い星の話なんだという印象があり、その星の人は普段は性別がなく、繁殖期だけ性徴があらわれます。男になったり女になったりする。
そういう星に調査に来ていた地球人の黒人男性が、いろいろ巻き込まれて、厳寒の荒野を旅するハメになるという話だったと思う。
私は、彼の旅の道連れになる現地人の、エストラーベンという人物の、愛想がなくて、何となく常にムッとしているところが好きでした。
全部読み終えてから気づいたんだけど、エストラーベンてもしかして、この話のヒロインだった?(鈍い)
私はなぜかずっと、エストラーベンはオッサンだと思って読んでいたんです。地球人の若い兄ちゃんが異星のオッサンと厳寒の荒野を旅する話と思っていた。
エストラーベンは女性(というか主人公にとっての恋愛対象)なんだと思って読むと、また全然違った危うい話だったのかもしれません。私、もう一回読んだほうがいいよね……。
まあ、なんつか、性別が無い世界なんだから、そのへん気にしなくていいのか、なんというか、不思議な話を書く人だよ。

SFも面白いんですが、私にはアーシュラ・ル=グウィンは、「ファンタジーを書く人」であり、「ゲド戦記」の人、なのですが、このほど氏の新作シリーズ「西のはての年代記」を読み終えまして、自分の中ではこの「西のはての年代記」が、氏の最高傑作ではないかなと思えました。

ギフト (西のはての年代記 (1))ヴォイス (西のはての年代記 2)パワー (西のはての年代記 3)


齢八十にして、全く新しい異世界を創造し、その大長編を脱稿するというのは怪物的です。内容的にも、老衰を全く感じない筆致でしたし、それでいて年齢による円熟は感じられます。
平たく言うと、「ゲド戦記」より、「西のはての年代記」のほうが、綺麗にまとまっていて、上手い、と感じます。
それはスゴイことだなあ。八十歳になっても、成長する人は成長しています。

私なんてまだアラフォーですが、すでに長編ファンタジーはしんどいです。
新しい異世界を創ろうという活力が自分にあるかどうか全く自信はありません。
現実には、若いころに創ったものの貯金を切り崩して食ってる感じじゃないでしょうか。
まあ、そのへん、創作人としての格の違いというものかもしれません。
「西のはての年代記」を読むと、「アタシももうトシだから」っていう言い訳は通用せんなぁ、と、しみじみ思います。年月を重ねても、腐らず熟成する書き手というのはいるものですね。

何作か読むと、ル・グウィン氏の作風のパターンとして、「逃避行」があるのだなと気づきます。何かから逃げて、あるいは、何かを探して、ほぼ遭難したような命からがらの旅をする主人公が、繰り返し登場してきます。
氏のデビュー時代の作品である「ロカノンの世界」もそうですし、「闇の左手」も逃避行の物語でした。「西のはての年代記」の完結巻である「パワー」もそうです。
ファンタジーとは、旅を描く物語であるという考え方が、文学の一つの見方としてあるそうです。旅や冒険、逃避行は、人生を象徴するものだからです。そういう意味では、ファンタジーは登場人物の一生涯を描く分野であるという考え方もできます。

ファンタジーの書き方わかんない、書きあぐねている、という人がもし居たら、ある旅の始まりから終わりまでを書いてみたらいいのではないかと思います。
それがファンタジーの全てではないですが、わかりやすく、描きやすい物語構造であるのは確かです。そして、分かりやすいからといって、底の浅いものでは決してありません。ル・グウィン氏のようなSFファンタジーの大家でも、一生をかけて描いてきたのが、紀行ファンタジーというジャンルです。

私にとっては長年、小説を書くことは、空想の異世界に旅をすることでした。旅に出るのは億劫ですが、行けば確実に楽しいです。
「西のはての年代記」は完結しましたが、ル・グウィン氏はまた新しい旅に出るのでしょうか。ファンとしては、そうであってほしいものです。
私もまた旅に出ることができるでしょうか。そうであってほしいものです。私の残りの人生が、豊かなものになるように。