「猊下の部屋ってさあ、ほんとに殺風景だよね……」
がつがつ林檎を食いながら、レイラスが私の部屋の長椅子に寝そべっていた。
本音を言えば、彼は床に寝そべりたいらしいのだが、それは不潔だ。人が土足で歩いているところなのだぞ、と一度諭すと、彼は極めて不愉快そうな顔をし、それから二度と私の部屋の床には寝そべらなくなった。
言われてやっと気づいたのだろう。人が土足で踏みしめた床に寝そべるのが、不名誉だということに。
「いつも思うんだけどさ、何かもっと飾りになるようなものを置いたら? 壁になにか掛けるのでもいいしさ、せめてもうちょっと凝った絨毯を敷くとか、花のひとつも飾るとか、宝飾のある照明とか天井飾りとか、香炉とか、御簾《みす》とか鎧《よろい》とか、宝剣とか、何かそういうの、あるだろ? 普通は部屋に飾ってあるようなものがさ」
いつも通りレイラスはぶつぶつ言い続けた。私はいつも通り、それに背を向け、書き物机《ビューロウ》に向かってものを書いて、全く聞いていないふりを続けた。
「何もないの? だったらさ、僕がなにか持ってきてあげようか。そういえば丁度、王都から新しい荷が届いてさ、前に僕が手紙に、トルレッキオにはまともなクッションもないんだよ、薄汚い毛布に干し草が詰めてあるようなのしかないよって書いたのを、父上が哀れんでくださったようでさ……」
しゃり、もぐもぐと、林檎を噛む音がした。
「刺繍入りのクッションが、五十六個も届いたんだよ。すごいだろ。もちろん本物の宝石がついてて、中身は真綿だし、芯には香木が詰めてあるから、すごくいい香りもするしね。実用性もありつつ、美術品としての価値もある、ものすごい逸品なんだよ」
レイラスの口振りは、いつものように、かなり恩着せがましかった。
「四十六個くらいあげるよ、猊下」
にこやかなような口調で、レイラスがそう言い、私は筆を置いて、ゆっくり彼をふり返った。
「いらないな。あいにく、この部屋には、干し草を詰めたぼろ毛布で間に合っているよ、レイラス」
私は断言した。それでもレイラスは微笑のままだった。
「遠慮しなくていいんだよ、猊下」
「四十六個もあって、どうするんだ」
「どうって。この長椅子とか、寝台《ベッド》の上とか足下とか、床とか床とか、とにかく、そこらへんにバラ撒けばいいんだよ。そういうものだろ?」
そういうものなのか。彼の故郷では。
「バラ撒きたいなら自分の部屋にバラ撒いたらどうだ」
思ったとおりのことを私は口にしたが、するとレイラスの眉間に一瞬にして、極めて不愉快そうな皺が寄った。見慣れていなければ、ぎくりとするような表情だった。しかし今さら、この黒エルフの美貌がなんだというのだ。私はその程度で動じはしない。
「もうバラ撒いたよ。そしたらイルスに怒られたんじゃないか。部屋を散らかすなって」
レイラスは明らかに苛立っている口調だった。
なぜ私が苛立たれなければならないのか意味不明だ。
「あいつはさ、異文化に対する敬意が足りないんだよ。いくら自分が板きれ一枚敷いただけのほったて小屋で育って、靴も履かずにうろうろするのが好きだからって、僕にまでそれを強要するのはどうかと思うよ。こっちは王宮育ちなんだ。贅沢するのに慣れているんだよ。あいつと違って、犬ころみたいには暮らせないんだ」
「喧嘩したのかレイラス」
今月何度目だという含みを込めて、私は確かめた。
「してないよ。あいつが勝手に怒って、この居間に許せるのは十個までだとか抜かすもんだから、僕も呆れて出てきただけさ。どういう基準なんだよ、それは。僕が僕の居間に僕のクッションを百個置こうが二百個置こうが、そんなの僕の勝手だろ?」
彼はいかにも自分が正しいという口調だった。私は無表情なまま、レイラスのその眼光鋭い金色の目と見つめ合った。
「ひとつ意見してもいいだろうか」
「なんだよ猊下」
「君は”僕の居間”というが、あれはフォルデスの部屋じゃないのか。君たちの部屋は元々二人分だった学寮の部屋が、壁を打ち抜いて一続きに繋がっているだけなんだろう。つまり、なにもかも二つずつあるわけだ。そうだろう?」
私が指摘すると、レイラスは鬱陶しそうに首筋にかかる長い髪を払いのけながら、ぞんざいに何度か頷いてみせた。
「それは、居間も二つあるということだろう。しかし、私は君たちの部屋の居間は、ひとつしか知らない。もう片方のは、どうなっているんだ」
ずっと疑問だったことを、私はとうとうレイラスに訊ねた。
「物置だよ、猊下。もうひとつの居間だったところは、僕の物置になっている」
レイラスは恥ずかしげもなくそう答えた。
私は初めて眉をひそめた。
「物置ではなく、それが君の居間なんじゃないのか、レイラス」
「そういう考え方もできなくはないね」
レイラスは煩そうにそう答え、食べ尽くした林檎の芯を、ぽいとそこらに放った。私は、ころころと転がっていく、案外綿密に食われている林檎の芯を見送った。
「考え方の問題ではない。君はフォルデスの居間を侵略している。そこに十個もクッションを置いていいというなら、相当に寛大な領地割譲じゃないか。文句を言われる筋合いじゃないだろう」
「そうだろうか」
不満そうにレイラスは私に反論してきた。
「置きたいなら君の居間に置け」
「そうしてもいいけど、あっちに置くと、せっかく送ってもらった見事な刺繍が、眺められないじゃないか。とても居られたもんじゃないんだ、あっちの部屋は。ただの物置なんだから」
私はその部屋を見たことはないが、それにも関わらず、頭がくらっとした。
「僕は眺めて楽しみたいんだよ。父上からの送り状には、品物は厳選したが、作らせた品はどれも出来がよくて、これ以上、数を削れなかったから全部送ったって書いてあった。無理もない。実物を見たら、無理もないっていうことが、あんたにだってよくわかると思うよ、猊下」
わかるかどうか自信はなかったが、わかりたくもなかった。
「それでも泣く泣く十個までは絞り込んだよ。イルスが、そうしないんだったら窓から全部捨てるっていうんだ。馬鹿じゃないの、あいつ? そんなことして何の意味があるのさ。馬鹿だよね、ほんと……」
吐き捨てるようにレイラスは言い、口調の通りの苦り切った顔をした。
「でも、どうも本気みたいなんだよ。あの目を見れば、それがわかる」
怖気だったように、レイラスは微かに震える小声でそう付け加えた。
震えるほどの何が、あの温厚そうなイルス・フォルデスにあるというのだ。私は彼と喧嘩らしい喧嘩などしたことはない。もしや怒っているのかと感じる瞬間はあるが、震え上がらねばならないような危機感は感じたためしがない。
「しょうがないから、残りの四十六個は、猊下の部屋に置いてよ。そしたら、時々来て眺められるからさ」
退屈なのか、レイラスは長椅子にだらしなく寝そべったまま、自分の指の爪を眺めていた。
「私の領土まで侵略しようというのか。さすがは砂漠の黒い悪魔の息子だな。この侵略者め」
私はまた思ったとおりのことを言った。するとレイラスはまるで鞭で打たれたように、びくっとして飛び起きた。
「どういう言いがかりだよ猊下! 僕の父上は侵略者なんかじゃない。こっちの領土を侵略してんのは森エルフとか、あんたの部族のほうだろ? 父上はその失地を回復なさっただけだ。それのどこがいけないんだよ」
そう言うレイラスはまさに吠える猫だった。猫が吠えるとすればだが。
私は咳払いした。冷静さを保とうと思って。
「話をすり替えるな。その話じゃない。私の部屋に君のクッションを持ち込む権利はないという話をしているんだ。フォルデスは許したかもしれないが、私を甘く見るな」
どうやら私は怒っているようだった。うっすらとだが怒っている。
それを見て、レイラスは急に、にこやかになった。にこにこしていると、彼はまさしく、媚びる猫のように見える。
「まあ、そう、かっかしないでよ、猊下。僕は大事なクッションの保管場所を得る。猊下はこの殺風景な部屋に豪奢な刺繍入りクッションという望外の調度品を得る。それでお互い、いいことづくめじゃないか」
切々と語るレイラスは本気で言っているかのように見えた。
私は内心、微かに震えた。何に身震いしているのか、自分でも良く分からなかったが、とにかくぶるぶると微かな震えが内蔵の奥底からこみ上げてくるのに耐えた。
「帰れ、レイラス」
「なんでだよ」
いかにも不当だというように、顔をしかめ、レイラスは私に抗議していた。
「何が、なんでだよ、だ。そもそも、どうして君がここにいるんだ。私の部屋だぞ」
「友達だろ?」
まるで私のほうが間違っているかのように、レイラスはこちらの人格を疑う口調だった。
「友達?」
友達というのは、黒エルフ語では物置という意味なのか?
という言葉が、舌先まで出かかったが、私は耐えた。それを言うべきかどうか、瞬時に判断しかねた。
「違うの?」
レイラスは今までで一番不愉快そうな顔をしていた。
「違いはしないが……」
「じゃ、クッションの十個や二十個や四十六個くらい、二つ返事で引き取ってよ。それくらいしてくれたっていいだろ、友達なんだから」
「なぜ私なんだ。マイオスにも頼んでみたのか。四十六個というのはかなりの数だぞ。マイオスと半々にして、二十三個ずつではだめなのか」
「だめだよ。シェルはものを食いながら本を読んだり、三日に一度はお茶とかなんとか、ところかまわずこぼしてるだろ? あんなやつの部屋に置かせたら、僕のクッションが汚れちゃうじゃないか」
「それを言うなら他人に預けること自体に問題がある」
私がそう教えると、レイラスは軽く背を仰け反らせ、いかにもおかしそうに笑った。
「まさか。猊下んとこに置いとけば平気だよ。自分の部屋に置くよりずっと安全さ。いつ来ても塵一つ落ちてないし、この干し草を詰めたぼろ毛布だって、いつも寸分違わず同じ場所にあるじゃないか? その机の上にあるインク壺だって、僕の目で見るかぎり、髪の毛ほどの位置の狂いもないよ。だいたい、毎日ごそごそ何か書いてるのに、机にも周りにもインクのしみひとつないなんて、あんたは異常だよ。汚しちゃまいずいものを保管するのに、この部屋ほどうってつけの場所はないね」
レイラスはにこにこしていた。
「……レイラス、友達というのは、黒エルフ語では物置という意味なのか?」
「いいや。違うけど、なんで?」
レイラスはにやにやしていた。悪い猫のようだった。
皮肉というのは、使い時を間違えると、何の効果もないのだった。
「悪いんだが……帰ってくれないか」
「いいよ。今日のところは。クッションはいつ運ばせたらいいの?」
「いらないな、そんなものは」
「まあまあそう言わず。じゃあ、いきなり四十六個とは言わないから、まず一個か二個か三個くらい……」
猫なで声で言うレイラスに、私の頭の中でなにかがぷつんと切れるような気配がした。
「帰れ」
私は努めて冷静にそう言った。しかし、口を突いて出る時、その声はなぜか怒鳴り声になっていた。
「綺麗な色ですよねえ、この蕾。咲いたらもっと綺麗なんですよ、ライラル殿下」
にこにこして、シェル・マイオスが私の今の長椅子に、ちんまりと足を揃えて座っていた。執事が出してきたお茶のカップを宙に浮かせたまま、部屋の入り口あたりにずらりと並んだ、極彩色の花のつぼみをつけた植物の鉢をふり返り、それで手元がおろそかになって、お茶をこぼしたらしい。
あっちちちと慌てている気配がした。
私は敢えてそれを見ないようにした。マイオスが来るとなぜか部屋が汚れる。
「すみません……。ええと、全部の鉢の開花時期をそろえるのには、かなり苦労したんです。咲くと色だけじゃなく、いい香りもします。花の形が、つり下がった星形なので、流れ星みたいでしょう。だからこれ、森の流れ星《フィブロン・トン・ディ・ジュー》と」
講釈はいい。問題はなぜ君が大量の草を持って私の部屋にやって来たかだ。
現れた時、シェル・マイオスは草まみれだった。両脇に二鉢ずつ抱えていたうえ、それでは運びきれなかった分は学院の者に持たせていた。人に持たせるのであれば自分は運ばないのが王侯らしい振る舞いかと思うが、それではシェル・マイオスとは言えない。
マイオスは上機嫌で草まみれになり、少々、泥まみれでもあった。学院の裏にある彼の庭園をいじる日課から、何のためらいもなく直行してきたらしい。
それで私の居間の長椅子も泥まみれに。そしてお茶をこぼされ、次は何をこぼされるのだろう。
「しばらくここに置いてもらえませんか」
「なぜだ」
心底不思議で、私はマイオスが言い終わるより先に聞き返していた。
「ええと……もうすぐ開花なので」
マイオスはしどろもどろだった。
「それが私と何の関係があるんだ」
「いいえ、あのう……日当たりの問題です。僕の部屋より、殿下の部屋のほうが、ちょっと暖かいみたいです。この花、もっと南のほうの原産なので、暖かいところに置かないと、開花が進みにくいみたいで。この分だと、予定したとおりに咲きません」
「それが私と何の関係があるんだ」
念のためもう一度言うと、マイオスは無言だったが、無言でも彼は何となくしどろもどろだった。
しばらくの、そんな舌の回らない沈黙ののち、マイオスはまたやっと口を開いた。
「置いてもらえませんか」
「いやだ」
「僕ら友達でしょう?」
友達というのは、森エルフ語では物置という意味なのか?
既視感のある一節が脳裏に湧いたが、私は堪えた。一日に二度も同じ話をしたくない。
むっとした無表情のまま私が黙っていると、マイオスはしゅんとした。
「殿下って、ずるいですよね。友達になってくれなんて平気で言う割に、友達らしいことなんか何もしないじゃないですか?」
何も? 何もとはどういう意味だ。友誼がないならなぜ君はいま私の部屋にいるんだ。そして毎朝毎晩、同じ食卓で顔を付き合わせ、同じ料理を食っているんだ。
第一、それと君の草と何の関係があるんだ。
「友達らしさというのは君にとって、温室代わりに部屋を貸すか否かという基準で判定されるのか。寡聞にして知らなかったよ」
「そういうふうに嫌味を言わないでください。ほんの一晩二晩ですよ。ただの草ですし、邪魔にならない隅のほうに……できれば日当たりのいいところがいいんですけど。置いてくれればいいんです。そしたら僕が狙ったとおりに、一斉に咲くと思うんで……」
「君の趣味だろう。ひとりでやってくれ」
うんざりして、追い払うように手を振ると、マイオスはむっと拗ねたように、口をとがらせた。
「とにかく置いていきますから。いやだったら捨てればいいでしょう」
マイオスは私がそれを捨てられないと思っているらしかった。
それは私への挑戦か。
不愉快だな。その程度のことで、私に勝てるつもりなのだったら、君の大事な草なんて、何鉢だろうが捨ててやるのだが。
「水をやるのは、僕が適切な時にきてやりますから。変にいじらないでくださいね。僕にはちゃんと、こいつらの声は聞こえています。捨てたらわかるんですからね」
脅し文句のように、マイオスはそう言い渡してきた。
私はさらにむっとした。
君はまたもや例の怪しい感応力とかいう技で、私を監視しようというのか。
「わかったら何だというんだ」
「そんなことしたら僕らもう友達じゃないですから」
まるで人質でもとったかのような物言いだ。
それが脅し文句になっているつもりなのか。
いかにもシェル・マイオスだなと、私は腹に据えかねたが、それについては結局、なにも言わなかった。言うべき言葉が見つからなかったからだ。
「帰れ、マイオス」
吐き捨てるように私は言った。
「そうします。また来ます」
棒読みにそう言って、マイオスはすっくと立ち上がった。
そして、言おうか言うまいか、迷ってから、どうしても黙っていられなかったというふうに、マイオスは言った。
「殿下は、僕に怒ってるんじゃないですよね。僕にも怒っているみたいだけど、そもそもはレイラス殿下にですよね。そんなの八つ当たりじゃないですか。そんなことするくらいだったら、僕に愚痴ればいいじゃないですか。なんでも聞くのに」
「友人面して私の部屋に物を置こうとする輩がいて迷惑なのだが何とかならないだろうか、マイオス。そいつは、さも当たり前のように私の心をのぞき見する無神経さで、私は不愉快なんだ」
私が相談すると、マイオスはどことなくぐったりと、肩を落とした。
「すみません。帰ります。のぞき見の件は、以後、気を付けますから」
とぼとぼと、彼は帰った。草は放置したまま。
あくまで置いていくつもりだったらしい。
そして、マイオスが去った直後に、執事がふたたび居間の戸を叩き、私に告げた。
謎の差出人から、たいへん嵩張《かさば》る異国風のクッションが四十六個届けられたが、どこに置けばよいだろうかと。
私はそれに、深く沈黙した。
黙っていないと、何の罪もない執事に、なにごとか怒鳴り散らしそうな気がしたからだった。
「お前、そうとう機嫌悪いな、今日は」
こちらの顔も見ず、厨房の奥にいるイルス・フォルデスが声をかけてきた。
「なぜわかるんだ、そんなこと。君も感応力を使うようになったのか」
淡々と答える、私の声は不機嫌そうだった。
それを聞いて、フォルデスが笑う、低い声がした。
「そんなもん使わなくても、足音でわかるんだよ、お前の機嫌は」
「それはそれは、耳のいいことだな」
確かに機嫌は悪そうだった。答えながら、私はすでに反省し始めていた。
ため息をつき、呼吸を整えてから見渡すと、いつもの厨房に、料理の皿がいくつか、すでに出来上がっていた。
それを眺めて、私は空腹を覚えた。何とはなしに、いつもに増して食欲をそそる。たたぶん私の好物ばかりが、そこに出そろっていたからだろう。
「なにを作っているんだ」
いつもより、多めと思える品数に加えて、まだ何かフォルデスが仕上げていたので、不思議に思ってそばへ行くと、それは銀色の大皿に盛られた、輪の形をした何かだった。
「小麦粉と卵を蒸して作ったプディングだよ。天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》、祝い事のときに食う菓子だ」
「祝い事? なんの?」
なにかの祝日だったか、今日は。祝日だったら先日、天使ブラン・アムリネスの記念日が、学内でも盛大に祝われたはずだ。おそらく私に気を遣って、盛大にやったのだろうが、こちらは気が滅入るばかりだった。
それを知ってか知らずか、食卓を囲む四部族《フォルト・フィア》は、いつもと変わらず素っ気ない献立《メニュー》でそそくさと空腹を処理したはずだったが。それでなくとも特に何か、祝いの食卓を囲むということは、未だかつてなかったはずだ。
「特に、なんのって訳じゃねえけど。お前、誕生日がないんだろ。シェルがそう言われたって話してたよ」
祝いの菓子だという割に、極めて素っ気ない輪っか状の薄黄色くつるんとした菓子に、フォルデスは鍋でこがした糖蜜のソースをかけていた。
「お前にだけ誕生日がないのに、他のを祝うわけにはいかないだろ。だけど、それだとつまんねえから、天使ブラン・アムリネスの祝祭日を、お前の誕生日ってことにしたらどうかって、シェルは思いついたらしいんだけど、スィグルが反対したんだよ。それはお前には、あんまり歓迎されないだろうってな」
銀のカップに入っていた、小さな銀色の粒を、フォルデスは褐色の指先でつまみとり、天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》の上にぱらぱらと散りばめた。まるで小さな星のようだった。
「俺もそう思うよ。それで流れて、でも、何もなしじゃあな、ってことで、何でもない日に四人分まとめて誕生祝いをやることになったのさ」
「聞いてない、そんな話」
私が静かに抗議すると、フォルデスは苦笑した。
「そんなこと話して、お前が素直に、じゃあ、やろうやろうって言うかよ」
言わないだろうか。
言うわけがないな。
そんなことに何か意味があるのか。
正直言って、そう思っている。
「葡萄酒の味見をしろよ」
広口の硝子《ガラス》の酒瓶《デキャンタ》に移され、空気を含まされていた、深い赤色の葡萄酒を指して、フォルデスが私に命じた。
今夜の厨房ではもう、それぐらいしかやるべき仕事が残っていないらしかった。
私は大人しく、用意されていた硝子《ガラス》の酒杯に葡萄酒を注ぎ、頼りないランプの明かりに透かして色を見た。美しい赤だった。香りもよかった。
舌に乗せると、その飲み物は、学院の古い酒蔵で熟成を重ねた、馥郁《ふくいく》たる味わいがした。山の部族の者たちが、何より誇りとしている味だ。
ここへ来る前、私がまだ神殿の城壁の中にいたころ、食事というのは、生命を維持するためのものだった。空腹というものすら、意識したことはなかった。欲求を満たすため、なにかを貪るということが、否定された世界だったのだ。
しかしここでは違う。
「これで完成。でも天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》は、後のお楽しみさ」
淡い笑みでそう言い含め、フォルデスは料理を運ばせた。
食堂のほうには、食うだけでいい、気楽なふたりが待っていた。いつの間に来たのだろう。
シェル・マイオスはどことなく、そわそわしていた。
スィグル・レイラスはどことなく、にやにやしていた。
「僕の大事なクッションは届いたかい、猊下」
「届いたよ、レイラス。全部、窓から投げ捨てておいた」
席に着きながら私が答えると、レイラスがからかうような小さい口笛を吹いた。
「嘘です。ライラル殿下は嘘をついています」
そわそわしたまま、マイオスはこちらを見もせず、きっぱりとそう言った。
「シェル。お前、のぞきはやめるって約束したんじゃなかったのかよ?」
呆れたふうにフォルデスが言い、それぞれの酒杯に葡萄酒を注いでやっていた。
「のぞいてません。今のはただの直感です。それより早く食べましょう」
よほど空腹なのか、マイオスは落ち着かなかった。
そのせいで慌ただしく食う羽目になり、マイオスは、落ち着けよと罵るレイラスに、何度も食卓の下で足を蹴られていたようだ。
「そろそろデザートに進みませんか。もういいでしょう」
必死の形相で、マイオスはそう頼んだ。誰にともなく。
なぜ君はそんなにデザートを食いたいんだ、マイオス。
「落ち着かないな。食った気がしないよ」
マイオスにぶうぶう文句を言うスィグル・レイラスの声が、葡萄酒のほろ酔いの向こう側から聞こえていた。
「だってもう、花が咲きそうなんですよ! さっきから、何とか必死で止めてるんですから……」
そう言うマイオスは、確かに何となく、思い詰めたような目をしていて、必死のような形相だった。
「花……?」
不思議に思って、私が訊ねると、マイオスはひっそりと頷いたが、それだけだった。
「そういうことなら、飯《めし》はもう切り上げて、天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を食うか」
フォルデスが席を立ち、そう宣言した。
私以外の全員が、それではと、席を立つ。
彼らは私の部屋で、このささやかな祝宴の続きをやろうというのだった。
なぜそういうことになるのか、皆目見当がつかない。なぜなんだと、やや呆然とする私を連れて、我が盟友たちは、無理矢理に私の部屋を訪れた。飲み残した葡萄酒と、皿と、そして天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》なる、円環状のプディングを持って。
「ああもう本当に、間に合って良かった!」
私の学寮の居間にある、沢山の植木鉢の花が、まだ蕾のままでいるのを見て、シェル・マイオスが快哉を叫んでいた。
そんなものには目もくれず、スィグル・レイラスはずかずかと上がり込み、謎の送り主から送りつけられてきた、四十六個のクッションの中から、二つ三つを選びだして、暖炉の前のいちばん居心地のいい辺りの床に、それを敷き詰め寝そべった。
「猊下の部屋って、ほんとに広くて居心地がいいよね。地味すぎるのが難だけど。僕、ここに引っ越そうかな」
すでにもう引っ越したかのようなくつろぎぶりで、レイラスは靴まで脱いでいた。
「引っ越すんなら喜んで手伝うぜ」
長椅子のそばにひとつだけある、客用の小さなテーブルの上に、天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》の銀皿を置きながら、フォルデスはまんざら冗談でもないふうに言った。
「無理だ、それは無理だ。物置になっているほうの居間にある物はどうするつもりだ」
青ざめて、私が抗議すると、フォルデスは笑い、その笑いに震える手で、円環だったプディングに、四等分のナイフを無造作に入れていた。
「どれを食うか自分で選べ」
すでに、ごろごろ寝そべる構えのレイラスとマイオスに、フォルデスは四枚あるプディングの皿を示した。皆それぞれ好き勝手に選び、フォルデスは私にも、自分より先に皿をとらせた。
プディングの中に、未来を占う、小さなお守りが入っているらしい。
食べ物の中に、食べられないものが入っているという話に、私は愕然としたが、それは彼の生まれ育った海辺の町や村では、ごく普通の習わしらしい。誕生日に天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を作り、皆で分け合って食べる。その中にはお守りが散りばめられており、うまく引き当てた者には、幸運がやってくる。
「何を当てようが恨みっこなしだぜ」
遠い砂漠の薫香が匂う、大振りなクッションにごろりとくつろぎ、フォルデスはそのままプディングを食らうつもりのようだった。
「私の部屋で寝そべってものを食うな」
驚いて私が咎めると、スプーンを銜えたフォルデスは、わざと難しい顔を作ってみせた。
「俺の故郷の王宮じゃあ、寝そべってものを食うんだぜ。それが正式な作法なんだ」
「なんて野蛮な連中だ」
嬉しげに批判するレイラスも、すでに寝そべってプディングを食っていた。
「このクッション、いい匂いがしますね。でも、寝そべって食べるのって、案外難しいな」
嬉しげに寝ころんでいるマイオスの皿から、今にも糖蜜のソースがこぼれ落ちそうだった。
「お前も来いよ、シュレー。なんで突っ立ってるんだよ。天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を食わなきゃ誕生日にならないだろ」
珍しくも強引に、そう誘うフォルデスに負けて、私もどうにも所在なく、床に置かれた砂漠風のクッションの上に、座らされる羽目になった。
床に座るなんて野蛮じゃないか。寝そべってものを食うなんて。それにこの、祝いの席の菓子というには、素朴に過ぎるプディングはなんだ。中に一体、何が入っているというのだ。
こわごわスプーンで、震えるプディングを突っついている私の横で、いかにも楽しげに天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を食っているマイオスの口の中から、がりっという恐ろしい音がした。
血相を変えて、噛みしめたものの正体を、手のひらに取り出して眺めたマイオスは、ぎゃっと短く悲鳴を上げた。
「なんですか、これ。木じゃないですか!」
「そうだよ。ほんとは銀とか錫《すず》とか、陶器で作るんだけどな。本物のはさすがに手に入らなかったから、木を削って作ったんだよ」
フォルデスはさも当たり前のように、そう教えてやっていた。
「お前の、それ、本だよな。本を引き当てた奴は、将来学者になるとか、知識を極めるとか言うんだぜ。それを噛み割るなんて、お前は相当、験《げん》が悪いよ」
「きっと将来、ものすごい馬鹿になるんじゃない、シェルは」
けらけら笑って、レイラスは気味が良さそうだった。
「ほっといてください! 殿下のには何が入ってるんですか」
ぷんぷん怒って、マイオスはレイラスの皿を引っ張り寄せようとした。
「うわっ、やめろよ。こぼれるだろ! 僕のクッションにシミをつけるな」
「僕のクッションてお前、シュレーにやったんじゃなかったのか?」
皿を巡って争っているふたりに、フォルデスが驚いたふうな声を上げるのを、私は呆然と眺めた。
「くれてやったわけじゃないよ。ここに置かせてやってるだけじゃないか。置き場がないなら捨てろとか、送り返せなんて君がぐちゃぐちゃ煩く言うから、置き場所を見つけておいたのさ」
レイラスはまるで、このクッションを半永久的に私の部屋に置いておけるかのような口振りだった。
「ねえ、なんなのさ、この、丸い板みたいなの?」
自分のプディングの中から出てきた木ぎれを、レイラスはスプーンの先に乗せて、フォルデスに示した。
「それは金貨だ。それを引き当てた奴は、将来、金持ちになれる」
「僕は今だって金持ちなんだよ。君たちは知らないだろうけど」
ふんぞりかえるレイラスから、マイオスが金貨の形をしたお守りを、見せてもらって眺めていた。
「お前は探さないのか」
手をつけていないプディングを見とがめられ、私はフォルデスに訊ねられた。
未来の幸運だなんて。自分の未来に幸運があるかどうか、それすら分からない身の上なのに。
「ただの遊びだよ。そう真剣に考えることはないんだ。お前はちょっと、頭が固すぎなんじゃないか?」
プディングの中から、スプーンで何かを掘りだしながら、悟った風にフォルデスは言った。
「俺のも出てきた」
銀のスプーンに乗せられた、小さな木の帆船を、フォルデスは私に見せた。逆巻くプディングの波頭を、蹴立てて走る極小の快速船だった。
「これが作るの一番大変だったのに、自分で引いちまったよ」
見せろとうるさいマイオスに、小さな船を廻してやりつつ、フォルデスはぼやいた。
「船を引いた人はどうなるんです?」
「遠くへ旅する運があるとか」
葡萄酒の杯を上げながら、フォルデスはマイオスに教えてやった。
「それって幸運と言えるのかい、イルス。遠くへの旅ならもう、してるだろ、このトルレッキオへ」
皮肉めかしてレイラスが言うのに、フォルデスは苦笑していた。
「そりゃあ、まあ、そうだけどな」
薄暗い部屋の灯火に透ける葡萄酒の色は、まるで、微かに光るようだった。
「悪いことばかりじゃないさ。お前らにも会えたし。何が幸運かなんて、その時になってみなきゃ、わからない」
含蓄のあるふうな、フォルデスの言葉に、しきりに頷く感激屋のマイオスを、底意地の悪い笑みで、レイラスが見つめた。
「そうそう、だからシェル、お前にも、馬鹿のお守りが当たってよかったと思える日が来るよ」
「馬鹿のお守りじゃないです! 知識のお守りですから!!」
噛み割った、木の本をレイラスに示して、マイオスは期待通りの怒り方だった。それが可笑しくてたまらないというように、身を揉んで笑うレイラスは幸せそうだった。
確かに何が幸運かなんて、分からない。運命の手によって、切り分けられたプディングの中に、何が入っているかは、同じでも、それを幸運に変えるのは、自分自身の力ではないか。
「猊下のには何が入ってるんだい。ひとりだけ秘密にするのはずるいよ」
卑怯だと、咎める口調でレイラスが言うので、それもそうだと私は思った。
私がプディングを食う間、フォルデスはずっと、にやにやしていた。思えば彼は、それを見る前から、私の食い扶持に何が秘められていたか、知っていたのだ。天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を作ったのはフォルデスで、彼は残りの一つがどんな幸運だったのか、消去法で知ることができた。
「何か出てきた」
スプーンが掘り当てた、小さな木の輪を、私は予言者フォルデスに見せた。
「それは指輪だよ」
淡い笑みのまま、フォルデスは私の無言の問いかけに答えた。
「なんだ。額冠《ティアラ》かと思った」
将来の戴冠を予言する幸運のお守りかと。なにしろこの菓子は、天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》というくらいなんだから。
「指輪を引き当てた奴は、意中の相手と結婚できる」
意中の相手と。
私は慌てて難しい顔を作った。そして葡萄酒を飲んだ。甘いプディングのせいで、口の中が甘くてたまらず、頭の中まで砂糖漬けになりそうだった。
「意中の相手ですって」
マイオスのほうが私よりよほど嬉しげにじたばたしていた。
「お前やっぱり馬鹿だよ。喜びすぎなんだって……」
たじろいだ笑みで、レイラスはマイオスを見ていた。そこまで喜ぶマイオスのことが、私も恥ずかしかった。
まさかこいつ、私に共感してはいまいな。もしもそうなら今すぐ死にたい。
「ちょっと甘くしすぎたな……」
プディングの味のことを、フォルデスが反省していた。
「そろそろ花を咲かせてもいいですか」
にこやかに、マイオスが立ち上がり、満を持したらしい、流れ星のような花の開花を宣言した。
それは魔法以上に、魔法めいた光景だった。
たくさん並んだ鉢のひとつに、マイオスが唇を寄せ、なにごとか囁きかけると、つり下がる滴のようだった蕾が、いっせいに解けた。ゆっくりと咲き始める花の目覚めは、次々に隣の鉢に伝播していき、見る間に部屋中の花が、星形に見える形へと、花開きはじめる。
花心が薄ぼんやりと、淡い緑色の燐光を放っていた。
あたかも流星の降りしきる野に、寝そべっているようだった。
私はそれに、ふと、古い記憶をよみがえらせた。
どこか遠い、遠い荒野で、満天から降りかかるような星を見上げ、願いを叶えてくれるという、幸運の星を、いつまでも飽かず探していた、幼い日のことを。
私はその話を、今まで誰にもしたことがなかった。私のそんな他愛もない記憶に、興味を持つ者が、誰もいなかったからだ。
しかし、この夜、葡萄酒の香気に任せて、皆、他愛もない話をした。
イルス・フォルデスは亡き母親が、生前最後の彼の誕生日に、この天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を作り、食卓に供した時のことを、憶えているという。その時も彼は小さな銀の帆船を引き当てた。
スィグル・レイラスは四十六個もあるクッションの、刺繍で描かれた部族の文様の話を、ひとつひとつ苦にもせず話した。その文様によって華麗に飾り立てられた彼の都についての話を、誇らしげに。
マイオスは彼の姉たちとそぞろ歩く、森の流れ星《フィブロン・トン・ディ・ジュー》の咲く夜の森の話を。笑いさざめく金の髪の兄弟姉妹たちとの、穏やかな日々のことを。
波乱含みの生涯にある、幾多の苦みのことを、この夜ばかりは砂糖衣に隠し、私たちは僅かばかりの人生の甘みを、そこに持ち寄った。
星を見上げた時のことを、私は彼らに話しただろうか。震える子山羊を抱いて眠る、寒い寒い夜のことを。葡萄酒の許す、甘い酔いに任せて。
「君たちはもう、帰ったらどうだ。床で寝る気か?」
ランプの灯も絶え果てて、揺れる暖炉の火影だけが照らす、薄闇に包まれた居間の床で、四十六個の極彩色の、刺繍された文様と宝石に埋もれて眠る、盟友たちに私は呼びかけた。
誰もそれには、答えなかった。
眠ったのか。仕方ないなと、私は誰にともなく言い訳をした。
「帰れ、レイラス」
ぐっすりと深い寝息で、床に蜷局《とぐろ》を巻いているスィグル・レイラスに、私はそう呼びかけた。
帰れ、マイオス。帰れ、フォルデス。
ここは君たちの部屋じゃないだろう。なぜ帰らないんだ。
なぜ皆、私と一緒にいてくれるのだろう。
不思議だな、と思いながら、私は眠りに落ちた。
森の流れ星《フィブロン・トン・ディ・ジュー》。
天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》。
そして四十六個のクッションのある、幸運な床の上で。
明日の朝、目覚めて、帰れと怒鳴るいつもの時まで、穏やかに繰り返す、友たちの寝息を子守歌にして。
《おわり》
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