2012年3月31日土曜日

しばらく

ただいま寝込んでおりまして、そう深刻なものではありませんが、四月いっぱいくらいはサイトにもブログにも更新がないかと思います。
元気になりましたら戻ってきます。
いつもヘナヘナしている管理人で恐縮ですが、その節はまたよろしくお願いします。

2012年3月18日日曜日

萌芽

自分の書いた新しい原稿を読みたいなと思う。そういうのは「書きたいな」というのとは少し違う感覚なのだけど、結果的には同じかもしれない。書かないと読めないわけだから。

新作の萌芽が頭の中であると、それを書かれた物として読むためには、自分で書くしかない。

書くのは大変な作業なので、誰かが代わりに書いてくれればと思うが、自分で書かなきゃ、自分の読みたい作品にはならないのだ。

今、書きたいなと思っているのは、緑滴る春の森、たぶん、書きかけで放ってあるシェルの番外編「西南回廊の開放」だろうと思う。

あれを書こうが書くまいが、どっちでもいいような気はするが、書きたいなら書けばいいとも思う。
執筆の意欲というのは、重い玉を転がすようなもので、最初が一番重い。初めに書くものは、書きたい物がいい。それで執筆の気分に立ち返れば、あとは転がり始めたのを止めない限り、筆は走り続ける。経験的には、ずっとそうなのだ。

呼び水になる作品は何でもいい。書きたい物なら。

「西南回廊の開放」はシェルが故郷にいる時の話で、学院に人質として旅立つよりも前の話なのだが、学院編ではちょっと痛い、ヘタレで甘い不思議ちゃんみたいなシェル・マイオスが、故郷の森では確かに稀有な力を持っていたというような話であり、彼には彼の部族なりの、支配者の器があるという話かもしれない。
要約すると、シェルは人の気持ちが分かる子だというだけの話なのだが。

私は子供の頃からずっと書いている、シェル・マイオスというキャラクターがずっと苦手で、掴みづらかった。あらすじ上の役割や、キャラクター性などは、他のキャラクターと同程度に決めてあるし、シェルは私の親友の子供の頃の様子が着想の源にあり、言わば現実のモデルがいるわけで、書きやすいはずだった。
でも、なぜかずっと書きにくかったのだ。何か足りないような感じがして。
やっとまともに書けた気がしたのは、「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」の時のシェルだが、あれも、とっかかりを掴んだだけという気がする。もうちょっと習作を重ねて、自分の中での、あの人物を書く技巧を完成させないと。

最近になってシェルが書けるようになってきた理由は、たぶん私が子供を育てるようになったからだと思う。
シェルはちょっと不思議なところのある人物でないといけないのだが、モデルにしていた私の親友には、不思議なところは無いのだ。天然な人なので、マジボケは面白いのだが、シェルはマジボケな人ではなくて、不思議な人でないと、物語上困る。
誰もが子供の頃に持っている力を、大人になってもずっと持っているような人なのだ。
シェル・マイオスは優しくて、人の気持ちが分かる。既成の概念に囚われない。いつも希望を持っていて、天真爛漫で、馬鹿のようにも見えるが、実はとても明晰な人物である。
何もわかってないようでいて、全部分かった上で、天真爛漫なのが、彼の良いところであり、キャラクターとしての力なのだが。
それは良い意味での、子供っぽさだと、子供を見ていると思う。
シェルを書くには、素体である私の親友の子供の頃に、うちのムスメや近所のちびっ子を混ぜて、なんやかんやすればいいというのが、最近分かってきて、ああ、これは書けそうだぞ、と思ったのだ。説明になってないが。

そのように、執筆の勘所は、時々理屈でなく掴めたり、分からなくなったりする。分かったような気がした時に、習作を残しておくと、後でそれを読み返すことで、執筆の勘所を思い出すこともできるので便利だ。

執筆の勘所って、何か言葉では説明できない、名状し難い気分であって、行間の空気みたいな物だろうと思う。それそのものをメモして残す事はできないので、その空気を行間にとじこめた習作を書くしかない。絵でもいいけど、あいにく私は絵が下手なので、コンセプトアートの代わりに、習作を書くしかない。
不自由だけど、文章で絵を書いているのだと思う。

「西南回廊の開放」はシェルが老女を看取る話だ。人が滅多に死なない、うちの作品群の中では、珍しく、死を書く話なので重いが、情景としては、花咲き乱れる春の森で、「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」から続く、とてもロマンティックな画面である。
春の新緑の中で老婆が死ぬという話で、たぶん世代交代を描く話だろう。

自分でも、書かないと分からない物があって、創作は不思議だ。
それだけ私の作品認識が弱いということなのだが、実際、書かなきゃわかんないんだから、それはもう、どうしようもない。
書いて分かるのなら、ただ書けばいいと思う。

2012年3月16日金曜日

ヨーグルト

いただいたコメントに返信するために、旧・脳ログの記事を漁っていて、自分が「イェズラムがヨーグルトを食べるのは萌えキャラ的にゆるせない」と書いているのをチラ見してしまい、今は何とも思わないので、当時どういう心境だったんだアタシはと、少々引きました。
トルコ料理とかだと、オッサンでもヨーグルト食べるじゃん。たぶんブルガリアのおじいちゃんとかも毎日食べてるよ。納豆みたいなもんなんだよ、ヨーグルトは。
しっかりしろ自分! と思いました。

そういうの大好きなので、自作の世界の食文化はどんなもんかというのは、必要以上に楽しく考えるんですが、皆さんはそういうの好きですか。

黒エルフって、牛飼ってるんだし、(砂牛という架空の生物が出てきます)乳製品は普通に食卓に上るんじゃないのかな。砂牛がじつは哺乳類じゃないとかいう意外オチでなければ。
そんな必要はないので、ストレートに哺乳類で、砂牛のお母さんはミルクを出すと思います。レイラス殿下もチーズとかヨーグルトとか食べて育ったんだと思うよ。
でも、基本的に、宮廷では箸で食べているっぽい文化なので、どういう料理なんでしょうね。割と見当がつかない。
飛鳥時代の蘇(そ)のようなものを食べているのかな。

私は酪農には全く詳しくないですが、牛って、飼うと相当な量のミルクを出すもののようです。毎日たくさんのミルクが生産されるわけで、それを加工して保存しつづけないといけないし、日々、相当量の消費もしないといけない。なりゆき、食卓は潤沢な乳製品であふれることになりそうです。

イェズラムがヨーグルト嫌いってことはありえないはずだ。むしろ「ヨーグルトちゃんと食え!」って説教する兄ちゃんなはずだ。たぶん、乳製品は麦と並んで、黒エルフの食文化の基盤なのです。ヨーグルト残すと、どつかれるんだよ、きっと。

麦を牛乳で煮込んだオートミールのようなものも、食べているかもしれません。
そうなると、それは箸では食べにくいが、日本人がお粥を食べる時のように、椀に入れたものを、啜って食べるのだろうかなあ。それともスプーンを使うのだろうか。
もし食文化に麺類があるなら、啜るのもOKかもしれませんが。

まあ、どうでもいいか(^_^;)?

とはいえ異世界ファンタジーには、土台となる生活文化の設定も、重要なんでありますが。そこらへんテキトーなまま、テキトーにその場のノリで書いているような気がしなくもなく。

昔から一番困るのが、森エルフの人たちで、彼らは耕作をしていないっぽいのです。森を開墾することをタブーとしているせいです。
何食って生きてるんだ、シェル。
もしかすると狩猟採集民なのですよね、森エルフは。
でもまあ、現実の森とちがって、「バナナとりんごの成る木」みたいな無茶が可能な世界なので、高効率の栄養源となる収穫物が複数あって、案外多くの人口を養える風土があるのだということでもいいんですが。

番外編「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」を書いた時には、シェルは実家で朝起きて、そこらへんの木の実を採って食べているんですよね。それを「朝食代わりにした」と書いたので、いつもそうということではないけど、たぶん普段も大差ないものを食べているんだろうな。枝から採ってきたものを、食卓に盛って食べるか、木のそばで直に食べてしまうか程度の違いしかないのではないかなあ。
かなり乏しいというか、過不足のない食料を、あるときだけ食べている民族のような気がします。そのままで備蓄できるものは、多少、蓄えるのだろうけど。通年、手を伸ばせば取れるところに、なにかしら実っているような世界なのか。
もし、そういう世界だとしたら、シェルはたぶん、大食しないように躾けられるはずなので、そのせいでシュレーに「採ってきたものは全部食べろ」って言うのかな。
狩猟について、可哀想だから採って食うなとは、シェルは言わないと思うんですよね。採って食わないと仕方ないんだから。でも、まだ食べるものがあるのに、新しいのを採ってくるのは、先々の死活問題につながるので、森では危険視されるだろうと思うのです。
森エルフってきっとみんな、ほっそり痩せているんだろうな。太ってるといけないんだろうと思うんだ。太るというのは、必要以上に食べてるということだから、限られた食料を公平に分配している世界では、「それはちょっとどうなの」という目で見られるのではないのかな。他人の分まで食ったということを意味するのですからね。

シェル……。食料豊富な学院生活で太ったりしないよな。
あんな、のんびりしてそうな子だが、ちょっと太ったからオヤツは控えようとか思う、ただ一人の人かもしれない。神様今日は美味しくてカップケーキを三個も食べてしまいました、済みません済みませんとか泣きながら謝ってたりするのか。そして翌日は罪滅ぼしに絶食してマイ庭園の手入れに励んだりすんのか。
本人の文化的には筋が通っていても、傍目には不思議ちゃんでしかないな。
そしてお茶の時間になると、シュレーに「俺の焼いたケーキが食えねえのか」ってオヤツ・ハラスメントされるんだな。
インドア派のシェル・マイオス(本ばかり読んでいる)と違って、運動量の多いシュレーやイルスはどんだけ食っても腹が減るし、食べても太りはしないんだよ。きっと。
(※スィグル・レイラスは美少年チートにより、どれだけ食っても太りません)
「お前も走ればいいよ」って、体育会系イルスに爽やかに言われればいいと思います。
そして晩ご飯は大盛りカレーです。(この世界にカレーはあるのか)

「みんな、食べ過ぎです」って、シェルはいつも言うのかなあ。

ごはんを残す能力のある人は、スィグルだけだと思うなあ。宮廷料理は完食しないものだからさ。ごはんを残すことがステイタス・シンボルなのだと思うけど。残さず全部食らうのは、実はレイラスにとっては、はしたないことなんじゃないのかな。でもたぶん全部食うけど。残すとお腹が空くし。でも時々反省して、わざとごはんを残してみたりするのだな。「僕はもっと王族らしく振る舞うべきだった、ガツガツ全部食うなんて恥だ」とか思って。ほんで残すとシェル・マイオスが「残さないで全部食べないと(略)」とか言い、シュレーに「俺の作った飯が食えねえのか」ってゴハン・ハラスメントされるんだ。

あの四人で飯を食うというのは、案外面白いことなのだと思うなあ。
でもそんな、ごはん食うだけのファンタジーってなあ。まあ、企画物なら(^_^;)?

四部族の均衡は学院の食卓から生まれるっちゅう話よ。

って、ね、私、前回の記事の後半がかなり妄想垂れ流しすぎたんで、昨夜は反省したんですよ。「あー書かなきゃよかった(ゴロンゴロン)」とか一応思ったんですが。
また書いてるよね。そういう病気なんだよね?
もう、しょうがないか。すみません、独り言です。独り言なんです!! 見逃して!
というか、それを小説で書けば恥ずかしくないというのは、どういうことなんや。

2012年3月15日木曜日

乙女堂へようこそ

メインのメールアドレスとしてGmailを使用しています。
届かないメールがあったので、迷惑メールフォルダを見たら、そこにあったんですが、その他に、Mail Dwarfが送ってきた、メールフォームからのメッセージが何件も入っているのを見つけ、ギャーッてなりました……orz

ちょ、Googleさんよ……!
い、いえ、いつもお世話になっております……。

幸い、乙女堂へのパスワード請求メールでした。
これはMailDwarfに自動返信を設定しているものなので、肝心のパスワードは、お送りできているものと思います。
いただいたコメントにも、基本的にお返事していません。
こういうものは、機械的なほうがパスワード請求しやすいという意見を、開設当初に聞いたので、そういうふうにしているのです。
しかし勿論、毎回ありがたく読ませてはいただいておりまして、私の励みだったのに……Googleさんよ……。

でも心配ない。MailDwarfは優れたツールです。サーバーに、送信していただいたメッセージのログが残っています。そちらでちゃんと確認できました。

乙女堂は、今現在、完全に停止しております。ブログの更新すらありません。
ただのログ倉庫になっています。余裕がなくて、そっちまで手が回らないというのが正直なところです。なにせ本館さえ休止中なものですから。
でも、やめたいという事ではないので、しばらく放置ですが、このままあります。

しかし何書いていいか分かんなくなったというのも、ありまして。
これ多分、期待に応えられてないなというのは実感としてあるんだけど、じゃあ具体的にどうするといいのかなっていうのが、自分ではピンと来ないんですよね。
いろいろ修行が足りません。

でも、何か、乙女堂に限らずですが、今回いただいていたメッセージ等を読ませていただいていると、「椎堂さん、とにかく何でもいいから何か書いたら?」というのが、皆様のご意見というか励ましとしてありまして、そうだな、とにかく何でもいいから何か書いたらいいな、と思いました。


最近ちょっと親ばか汁に脳を冒されすぎてて、オカン・スイッチがオフになる瞬間がほとんどありません。「娘が娘が娘が可愛い可愛い」とかいう信号がひたすら脳内を流れています。それはそれで、良いことなんでしょうけど、常にそれっていうのも、なんか怖いよね。

私、何年か前に突然山ほどの原稿を書いていましたが、あの時期も勿論、育児中でした。今より忙しかったと思います。あの頃に比べたら今は暇だなという気もします。
でもまあ、忙しかっただけに、ストレスも解消したかったのかもしれません。
それもありますが、当時やっと人語を話しだした、ようせいのしまから来た、違いの分かる幼児と会話していて、うちの夫はカテゴリーとして絵描きなのですが、パパはお絵かきをする人だけど、ママはなにをする人なの? と、突然尋ねられたのです。
その時、「ママはあなたのお母さんでしょ」みたいな事を軽く答えたと思うんですが、娘が
「それだけ?」
って、お前にはほんとに失望したよみたいに言いやがるんですよ。
その時に、もう、なんかしらんけど、すごく衝撃を受けたんですね。
そして思い出したんです。「そういえば、私は小説を書く人やないか!!」と。
それくらいしか無いなというふうに思ったのです。それしか能のない人間が、それをやらないで、どうしようっていうのかなと。
たぶんその一両日中くらいに、「紫煙蝶」を一気に書いたんだったと思います。
なんだか良くわからない理由によって右脳への扉が開いたんだね……(^_^;)
自分の中に、普段の生活では全く使わないインナーワールドが、消えずに相変わらずあるのだなというのを感じたのです。

それは別に、一切表現せずに、自分の中にしまったままでも、幸せには生きていけると思います。そのことを思い出さなければ。
実際、私も、子供に「それだけ?」って言われなければ、忘れたままだったかもしれません。だってお母さんだし。育児や家事を一生懸命やるほうが偉いんだし。24時間体制でお母さんなほうが偉いっぽくね? 頑張るってそういうことじゃね? 育児は滅私奉公ということじゃ?

それはそれで偉いんでしょうけども。
でもまあ、必ずしも、そういう事でもないかもしれないですね。


「紫煙蝶」の最後のほうで、ジェレフの死を悼むエル・メッシナという少女が、

「私も欲しいの、自分の英雄譚《ダージ》が。なんでもいい、英雄らしい物語じゃなくても。自分が生まれてきたことに、意味があったと思えるような何か」
という話を、めそめそ泣きながらイルスに話しますが、書きながら、ああ、まあ、そういうことやなと思いました。
私もたぶん書きたかったのです。英雄らしい物語じゃなくても。自分にしか書けないような自分のための英雄譚を。
上手くて面白くて、ためになる物語は、私ではない誰かが書いてくれるでしょう。
こういう言い方はよくないかもしれませんが、面白い、良い作品を書こうというんではないんです。ただもう自分の中から垂れ流されてくるものを書き留めたようなのでもいい。誰が読んでどう思うかとか、そういうことは関係なくて、思いついたものを、ただ書きたいということでした。

それはとても楽しい作業です。
まして読んだ人にもそこそこ面白いと言ってもらえるというなら。

しかし育児というのも楽しくやりがいのある仕事で、育ちゆく我が子を見るにつけ、自分のような人間がやってのけられるなかに、この子が世に生まれでる手助けをするよりも、優れた仕事があるだろうかという気もします。子供を育てて、それが終わったときに、自分にはなにも残らなくても、それはまあ、それでいいかなみたいな。それはそれで十分、満足できる人生のようなね。

でもそれじゃあ人として、つまんないのかな、という。

今は、その二つの気分のせめぎあいです。

小説を書くというのは、自己表現したいという欲が必要な作業なのだと思います。
多少なりと、俺が俺がという貪欲さがないと、いいものなんか書けないんじゃないかな。
私にいま足りないのは、その欲ではないかと思います。
自分にしか書けない自分の物語を、この俺様が書き著してくれようぞという、ちょっとバカかみたいな、そういう意気ではないかと。

優しい読者さんからのコメントを見ていると、時折、皆さん、「椎堂さん、あなたにしか書けない物語がある。私はそれが好きだ」というような事をささやきかけてくれます。ありがたいことです。
私もですが、書く人は、極力それを真に受けるべきと思います。
自分がいかにしょーもない人かということは、本人が誰よりもよく知っているものですが、そう思っていては、たぶん小説なんて書けやしないのです。
いい気にならなきゃだめなのよね。

私は今ちょっと己の分を知りすぎてると思います。
そんな無駄な悟りなどひらかずに、元通りのバカになって、また書いたらいいと思います。

それにしても、今見ても思うけど、「紫煙蝶」のラストで、イルスはメッシナちゃんを口説いてもよかったんじゃないのかな?
書いていた時、なんだかイルスはすごく、あの娘に気があるような感じがしたのです。
でも、なんにも言わないのね。ちょっと意気地がないんじゃない?
それともあの後、気晴らしにどこか行く? とか誘ったのでしょうか? どうなの?
誘ってもいいと思うよ。そんなことをしている場合ではなかったか?
でも、お前ももう18歳ぐらいなんだろ。もうちょっとガツガツしろよって。
いろいろ心配になります。彼は、この物語を最初に書きはじめたころ、私よりずっと年上のお兄さんでしたが、今では息子のようなものです。おとなしくて引っ込み思案のイルスが、モテないっぽくて心配です。
うちの子にしたいランキングだったら、あの四人の中ではシュレーかな。なんかほっといても平気そうだしラクそうだから(^_^;) でもそういう子に限って、とつぜん世界征服を目論んだりして、一番ハラハラされられたってオチなのかもしれません。
昔は、リューズ・スィノニムの親ばかっぷりが異常と思っていたけど、今は、「あれっ、割とふつうじゃね(・∀・)?」って思います。
私も遠くの寄宿学校に子供を送り込むのなら、仲良くできそうな子と同室になってくれるといいなと思います。うんうん。思う。でも、思うけど、だからって学校に電話して「うちの子を○○くんと同室にしてくれなかったら火つけてやる」みたいな事はさすがにできない。異常すぎて。
リューズはやっぱ異常な親なんだな。でも父上はあれでいいと思うよ。フィクションなんだし、実在の人物じゃないから。
実在してたら保護者会で輝けると思うよ……。
そう考えると、序盤の族長会議で会ったヘンリックとリューズの会話は、入学説明会に呼ばれて来た親っぽいよね。そう思って、振り返ると、あのヘンリックは普通の人すぎてびっくりするよ。
親もいろんな人いるよね……。そんな新視点も加味されてしまったので、ずっと前からリテイクしたいと思っている、族長会議の章が、ただの保護者会になりそうで心配です。
リテイクして、序盤で、シュレーの叔父さん、ハルペグ・オルロイと、シェルのママを登場させようかと思っているんですが、どうしたもんかなあ。出だしで、序盤にはあまり登場しないキャラクターが四人も出てくるというのは、構成的にイケてないし、うーんうーんと思って止まっています。

そういえば、トルレッキオ学院の制服って、みんなは、いつ買ったんだろうね?
時代背景的に、いちいち仕立ててると思うんだけども。いつ採寸とかしたの?
改めて考えると、「不思議だね」っていうところが、大小すごく沢山あります。
最初、到着したばかりのイルスは、まだ制服持ってないほうが、リアルだったかもしれないよね。初対面のときのスィグルが、僕は部屋では民族衣装を着るからキーッみたいな話をわざわざしていたのは、学院の仕立て屋に自分用の制服を縫ってもらったばかりで、なにこの変な服と思って欝だったのかもしれないです。だって、元々、嫌々通う学校の制服が、例えば、かぼちゃパンツだったとかいうことになったら、そりゃ誰だってキレるよね。設定では、黒エルフは裾の長い服しか着ない民族だけど、トル学の制服はチュニック丈だから。殿下は実は足を出すのが恥ずかしかったのではないのか。生足じゃないけどさ。足のラインが出るのが「なにこれ!?」だったのかもしれないよ。行ってみたら制服がミニスカだったみたいなね……(どうでもいい新視点)
あれ、でも、そういう意味では、シュレーも裾長い服しか着たことないはずだけど、その割にはミニスカ制服に平気で耐えているよね。シェルも全然平気だったっぽい。あいつらおかしいよね。

そのへんの細かいところ、実は考えたことがないんですよね。私が中学生で草案を書いた時には、「学校なんだから制服あるだろ」的な、イージーな発想で書いていたと思うんだよ。
でも、今にして思うと、学校の制服とか学用品て、入学事前に、親が学校から連絡もらったり、説明会に行ったりして、リストをもらって、買い揃えたり作ったりしているんだよね。子供はまだ自分では用意できないのだからさ。そのへん本人たちが全然意識していないというのは、リアルでいいと思うけど、でも、そのあたりの経緯を念頭に書いてもよかったよね。

ということを、リアルで自分の子が小学校に持っていく「数え棒」っていう、太い竹串程度のプラスティックの棒100本に、1本づつ名前を書かないといけないとかいうのに直面して、初めて思いました。あと、体操服にアイロンプリントしないといけない校章も、どっちが上だかわからないという困難に直面しています。
ケータイのメールで先輩ママ友に聞けばすむ現代でも、けっこう困るのに、あんな中世みたいな世界で子供の学用品を不足なく揃えて送り出すというのは、相当に難しいことだと思うので、リューズが必要でもない訳のわからないものを、山ほど子供に持って行かせるのは仕方のないことだという気がする。そのくせ、肝心な、必要なものが無かったりするんだろうな。
持ち物に油性マジックで名前は書いていないと思うけど、だからその代わりに紋章とかがあんのかって、納得もしました。幼稚園の入園のときに、持ち物に「じぶんマーク」っていう目印をつけるんだけど、あれと原理的には同じだよね。紋章。
レイラスの学用品にはぜんぶ、ハチさんのマークがついてるんだな……。

学校ぐらい、私だって通ったことあるし。
と思っていたけど、実際自分でいろいろ経験するまで、私は「学校に行く」ということの全体像を見てはいなかったな、などと思います。
でも、見ていなかったからこそ書けるものでもあったかもしれないし。
今書くと、ぜんぜん違うものになったかもしれないですね。

あれ。なんだか久々に、「だから何?」みたいなことを延々書いてしまいましたが、脳ログ調子戻ってきたんじゃね?
訳が分からん長話ですみません。このへんでブチッと終了しよう。
では皆様また次回。

2013年のスケジュール手帳

オリジナル手帳の制作を企画中という方からメッセージをいただきました。
ブログツイッターで企画立案中だそうです。

  • トモエリバー手帳用紙
  • 糸かがり製本
  • マンスリー&一日一ページ
  • 方眼紙
サイズは未定、なのでしょうか。企画ブログの読み込みが足りないのか、そのへんの仕様は私にはわかりませんでした。

ほぼ日手帳と、トラベラーズノートを併せたようなものを想定されているとのことですが、何がどのように併せられるのかは未公開のようです。

手帳って、毎年、売り場を見ると、ものすごく沢山の種類が発売されるのに、私にはなぜか常に不満があって、「これじゃない」という部分を我慢しつつ使うものです。そういう人は、私だけでなく、世の中にけっこう居られるようで、不思議ですね。種類が豊富なようでいて、手帳でどれも中身は同じだったりするのかもしれません。

私の理想のスケジュール手帳は、

  • 年間プランナー&マンスリー&ウィークリー(レフト式)
  • 方眼紙
  • トモエリバー手帳用紙(クリーム)
  • 糸かがり製本
  • ノートページは別冊
  • A6スリム(A6でも許容範囲内)
  • 革装丁(合皮、型押し紙装丁、またはカバー使用でも許容範囲内)
  • 角丸仕上げ
ですが、今のところ、この条件を全部満たしてくれる過不足のない手帳は見つかっていません。

代案として、今もっとも理想に近い使用感なのは、ほぼ日手帳WEEKSです。それとスマイソンのパナマノートの二冊持ちをしています。
ただWEEKSはちょっと私にとってはデカすぎるし、お言葉コーナーもいらないので(嫌いではないですが紙面がもったいない)、四月からはPLAY OFFの手帳と差し替えて試してみるつもりでいます。

スケジュール手帳のほうは、それで妥協ができそうですが、妥協ができないのが、二冊持ちしている雑記帳のほうでして。スマイソンのパナマノートはすごくいいんだけど、でも方眼紙ではありません。方眼紙もあればよかったんだけど。

これだといえるような気持ちのいい商品が他にないので、トモエリバー手帳用紙を紙屋さんから買って、自分で方眼を印刷して、糸かがり綴じして使うしかないみたいです。
もう、それで諦めてます。自分で作るのが結局は一番早いし。お金もかかりません。
ハードカバー装丁の作り方のクラスとかも参加してみましたし(ひそかにそんな活動もしていた椎堂さん)、人様に売るわけじゃない、自分用であれば、そこそこ納得いくものが作れるんじゃないのかなあ。

でも、仕様とコスパの合うものが安定供給で売られているのであれば、それは勿論、買って済ませたいのです。どうしても自分で作りたいわけではないので。むしろ作りたくない(;´Д`)めんどうくさいわ!
用紙を妥協して、ニチカの地質野帳でいいかなー等とも気持ちが迷っています。

2012年3月14日水曜日

□おもしろい

このブログの各記事の最後に、

リアクション:□おもしろい

という行があって、クリックすると「おもしろい」の数字が加算されるんですが、これはせっかく押していただいても、筆者である私には何の通知もないものです。誰がいつ押してくださったのかも全く気づきようがないという、奥ゆかしすぎるシステムで、何の役に立つのかよく分かりません。
が、押してくださっている方がいらしたのに、今気づきました。ありがとうございます。嬉しいです!
これは、機能としては、控えめすぎでイケてないWeb拍手みたいなもの(お礼ページとかは一切ありません)です。
記事がおもしろかったら押してやってください。私が何かの拍子に気づいて嬉しくなります。(PC表示の時しか表示されていないと思います。)

でもちょっと奥ゆかしすぎて、さすがに気付けないと思い、Web拍手もブログサイドに設置してみました。
でも、これはこれで目立たなくて、いちいち押すのも面倒な位置なような気が……。
何かのタイミングに押していただけると嬉しいですし、連絡用に使っていただいても勿論かまいません。(これもPC表示限定だと思います。)

あと、ブログのコメント機能もありまして、こちらは今は管理人の承認後に表示される設定にしてあります。スパム対策で承認制にしていますが、状況を見て、スパムがあまりひどくないようでしたら、承認なしでも即時公開されるように変更するかもしれません。その時は改めてお知らせします。

公開されるコメント機能では気後れが、という場合は、ページ末のメールフォームをご利用ください。かなり下の方ですが。メールで管理人あてに送信されます。
返信はブログ上でしますので、差し支えないと思われる部分を引用することがあります。お名前は基本的にお出ししないんで、記名してくださっても、匿名でも、返信記事上では匿名になります。

と、まあ、なにかすごく「かまってほしそう」な椎堂さんのブログです。かまってかまって。かまうときはお気軽にどうぞ。ご都合のよい機能から、暇なときに随時かまってください。
Google+でかまってくれる人(オンノベ関連)も募集中なんですよ。
面白そうかなーという方は、よろしくご検討ください。


話は変わりますが、この春の私の花粉症は割とましです。昨年までは「死にそう」レベルでしたが、今年は一般的な程度です。もしかするとあれか、去年までのは更年期ってやつだったの?
あれは、立派なおばさんに生まれ変わったら元気になるものらしいので、早くも立派なおばさんに生まれ変わったのかな(^_^;)? 産みの苦しみでしたね。狼男が変身する時にもがき苦しむみたいなアレ?(※違います) これでとうとう真の勇者となったよ。
それでもインフルエンザからなかなか立ち直れず、気力が底ばいの日々が続いていましたが、そろそろやっと元気になってきました。
元気っていいな。元気があれば何でもできるってアニキも言ってるけど、というかむしろ元気がないと何もできないな……(かすれ声)

借りぐらしのアリエッティ

うちの娘が最近やっと、世の中に音楽CDというものがあることに気が付きました。
彼女は、生まれた時から家にiTunesがあり、音楽とは、Macかカーナビか携帯電話が演奏するものだと信じて生きてきました。もしくは楽器の生演奏です。

本人の談によれば、幼稚園に入った時に、「変だな」と思ったらしいです。
お昼寝やゴハンの時の音楽を、幼稚園の先生が、Macでもケータイでもない何かで鳴らしていたからです。

CDラジカセです。先生は、スピーカーにDVDみたいなのを入れて音楽を鳴らしいてるの、と娘は真面目な顔で話していました。うちの娘は、あの丸くて銀色のディスクには、動画か、写真のバックアップが入っているもので、映像媒体であり、音楽を収録してあるものだという認識が無かったようです。

物心ついた頃にはもう家にiPadがあり、NintendoDSの幼児ソフトで遊び、世の中のモニターは全てタッチパネルだと信じている世代です。
楽曲が、お金を払って買えるものだということを、つい先日まで知りませんでした。
親はiTMSで買っているんですが、その仕組は見ただけで幼児には分かりません。レジがあって現金を払っているわけではないので。「音楽はインターネットにいくらでもあるものだ」と娘は思っていたらしいです。

彼女が認識を新たにしたのは先日、オカンの用事につきあって、ツタヤに行った時でした。音楽CDが販売されている中に、彼女の好きなアニメ「借りぐらしのアリエッティ」のサントラCDがあったのです。

  借りぐらしのアリエッティ サウンドトラック
借りぐらしのアリエッティ サウンドトラック

「アリエッティのDVD売ってるけど、うちにあるのと形がちがうね……」と娘が物欲しそうに言うので、それは音楽CDだと教えたんです。そうしたら、それが物凄いカルチャーショックだったようです。

音楽って買えるの!?

と店で大音量で叫ばれました。
私が生まれて初めてiTMSでMP3データを買った時のような衝撃でしょうか。もしかすると、それ以上のものかもしれませんが。

「えっ、じゃあ、AKBの曲とか、売ってるの? 買ったら聴きたい時に聴けるの( ゚д゚)?」
と、娘はびっくりしていました。
そうさ、それが音楽産業さ。知らなかった……? そりゃそうだよな。教えてないもんな。

娘は、歌手やミュージシャンの人たちは、音楽はただで配り、コンサートやテレビ出演の仕事で生計を立てているのだと思っていたそうです。それフリーミアムじゃんかよ。時代を先取りしすぎ。
世代的に、インターネットには何でもあって、それを全て(一見)無料で使用できるというのに慣れすぎていて、データが販売されているという事実に思い当たらなかったらしいです。

夫にそれを話すと、それはそれでカルチャーショックだったようで、娘に教育的措置として、「借りぐらしのアリエッティ」のサントラCDを買い与えていました。

……Amazonで。

それ、店で現金払って買ったほうがよくない?
娘はAmazonの人はいつもただで本やDVDを送ってくれる親切なオッサンだと思っているような気がすんのよ。デジタルマネーを子供に理解させるのは難しいと思うよ。なにしろ娘は、パパは毎日会社で遊んでるんだと思ってんだからね?

しかもAmazonから届いたCDのデータは即座にiTunesに読み込んでiPadに入れて子供に渡してるしさ。それじゃ今までと何一つ変わらねえじゃんよ。
しかしうちにはCDプレイヤーが存在しないので仕方がないんです。いちいちDVDプレイヤーで聴くのも面倒くさいしiPadのほうが便利です。最近、AppleTVも導入されたので、子供の目には、一体何がデータを再生しているのか、いま鳴っている音楽データは一体どこに存在しているのか、ますます分からない状況になってきています。まさに、Music in the Air、音楽はどこともしれぬ天空から鳴っているのです。

そしてその、「借りぐらしのアリエッティ」ですが。
巷での評判はどうだったのでしょうか。あまり良い評価を聞いたことがないんですが。
うちの子には好評でした。神戸で開催された、アリエッティ展を見に行った効果もあったかもしれません。アリエッティの世界の実物大セットが組まれ、自分自身が床下の小人になったような気分が味わえる面白い展示でした。

ジブリ版のストーリーは、なんとなく、要約すると「だから何」みたいな、どれがオチなの、みたいな、雰囲気重視の内容でしたが、私には、いい作品だったような気がします。
結論があるようで無い、というか、無いようで、あるというか。見る人それぞれが何かてきとうに自分なりの結論を考えればいいような作品でした。それでいて、何がしかの情動を観る人の心に強く喚起する内容でした。言葉ではうまく説明できない種類の感情です。理屈で解説しようとすると、逃散ってしまうような何かが、行間にある作品になっていたんではないでしょうか。

DVDを一生懸命見て、スタッフロールが尽きた後、うちの娘は「アリエッティって、どろぼうじゃない?」と真面目な顔で悩んでいました。「あれ、借りてないよね。盗んでいるんだよね。それとも誰も見ていないところでお金を払ったり、借りたものを返したりしているの?」と。

それはとても難しい話やなと思いました。

アリエッティは人間ではありません。位置づけとしては野生動物です。
小鳥がどこかから飛んできて、テーブルの上のパンをつついて食べたり、少し巣に持ち帰っても、おまわりさんは小鳥を牢屋に入れません。
小鳥は人間じゃないから。
でももしアリエッティの家族を、我々と同じ社会の構成員とみなすのであれば、あれは泥棒でしょうね。

ちょっとだけなら盗んでもいいという事には、親として、教育上できません。
そういう、親が子供に質問されて言いよどむような内容であったのが、それはそれで良かったのではないかと、私は思いました。
答えは、子供が自分で考えりゃいいのです。私は親なので、親としての立場からの意見を言いますが、(たとえば「人のものを盗むのはいけないわ」とか) そういう、人から与えられる考え方ではなく、自分で考えた自分の考えを持つキッカケをくれるというのも、フィクションの重要な役割であろうと思います。

人んちのクッキーを勝手に持って帰って良いか。
それは幼児にとっては非常に卑近で深刻な問題であり、よい題材でした。
娘は、「アリエッティは勝手にとらないで、男の子やおばさんに、もらっていっていいですかってきけばよかった」と、ちょっと怒っていました。
それは六歳という年齢からすると、正しい答えでした。

また人生の折々にこの物語を反芻して、その時々なりの答えを出すとよかろうと思います。


最後に、ママ、妖精はいるの? と娘が聞くので、

妖精はアヴァロンにいる、と答えておきました。

不思議な話ですが、うちの娘がやっと人語を話しだした頃に、まだ新しい人なので、自分が生まれた時のことを覚えているとかいう説もあることだし、試しに聞いてみようと思い、「お前は生まれる前はどこにいたんだ」と聞いてみました。
その時、うちの娘は、「ようせいのしまにいた」と即答しました。

というわけで、人間は生まれる前、アヴァロンにいるようです。
何がどうなって、そういう答えになったのか、今もって分かりませんが、それは素敵な話だったので、「なるほど、そうか」と答えておきました。
娘は今、その事を覚えていないそうです。そのような会話をしたことも、そう答えたことも、全く記憶にないといいます。
彼女もやっと、この世の人間として生きていくことが決まったようです。
昔の人は、七歳までは神のうち、つまり今の満年齢でいう六歳ごろまでは、子供はまだ完全にはこの世の人間ではないというふうに考えたらしいですが、まさに、こういうこと?

ようこそ、この世へ。
妖精の島に比べると、これといって面白くもない、しんどいばかりの浮世ですが、素敵な音楽や物語があれば、そこそこ楽しく生きていけるものと思います。
少なくとも音楽は、我が家では今日も天空から鳴り響いています。
次はヘビーローテーションがヘビーローテーションする事になるかもしれませんが、娘をお店につれていって、現金でCDを買ってみせようと思いました。

2012年3月13日火曜日

草子ブックガイド(1)

Amazonにおすすめされたので、漫画を読みました。

草子ブックガイド(1) (モーニングKC)
草子ブックガイド(1) (モーニングKC)

丁寧に描いてある漫画だなという印象でした。人間が手で描いているものという温かみがありました。
お話の内容は、理想論ぽいというか、ちょっと甘めかなという気がしましたが、純粋で良いと思います。

古本屋さんから本を盗んで読んでいる女子中学生、草子の話です。
彼女のお父さんは、飲んだくれの売れない画家です。お母さんは家族を捨てて逃げてしまいました。お父さんと草子は、まともにご飯も食べないような毎日です。
彼女は読み終わると感想文を本に挟んで、古本屋の棚に返し、新しい別の本を盗んでいきます。
勝手に本を借りている女の子です。
そんなことをする割に、草子ちゃんは引っ込み思案で、おとなしい女の子です。

盗んだ本に感想文をはさんで返すというのが、いかにも青春の甘やかさと思えました。
それを優しい目で温かく見守る老店主は、ファンタジーですが、世の中にこういう人はきっと沢山いるんだと夢を見たくなる感じの人物です。

愛情とか、信頼とか、優しさが詰まった、心温まるお話と思います。
私は自分もお母ちゃんなので、草子ちゃんのお母さんは許せません。でも、もっと年をとって、もっと優しくなったら、許せるようになると思います。

個人的には、しおりの猫の話が好きでした。私もあんな猫を飼いたいです。

書き写しノート

朝日新聞の天声人語というコラムを毎日書き写すためのノートというのがあります。割と売れている商品のようです。

なぜそんなことをするんだろうと個人的には不思議です。

推察するに、特に天声人語が好きだからということではなく、毎日なにかをする習慣として、「手書きの字を書く」というのは、良いものであるし、是非やろうと思うが、毎日、自作の文章を考えるのは骨が折れる。すでに決まった内容のものを書き写すのであれば、気が楽だ。新聞のコラムなど良いのではないか。文字数は一定であるし、時事的な話題にも毎日触れることができて、ためになりそうだ。一石二鳥ではないか。と、いうような感覚なのではないかと思います。

いや、わからないです。天声人語を毎日書き写したいほど好きという人が大勢おられるのかもしれませんよ?
ただ私は何となく好きではないのです。受験の時に半強制的に読まされた経験があるせいかもしれません。

しかし、毎日何かを書き写すというのは、中世の写本僧のようで、いいじゃないか。萌えるー、とか思って、試してみました。題材は「枕草子」です。

一段目を書き写してみて思いました。
しんどいわ、これ。
なぜだろう。自分の文章なら何ページ書いても平気なくせに、清少納言の名文が疲れるというのは?
「書く」という作業と、「書き写す」という作業は、どうも何かが本質的に違うようです。
枕草子の一段目は、私は丸暗記していて、知らない文章を読みながら書く大変さは無いはずですが、でもやっぱりこれを毎日コツコツ全段写すというのは、大変な労力が予想されます。同じ文字数の文章を自分で書くほうが、はるかに楽です。

なんだろうね、これ……。
こんな大変な事を日課にしている人が大勢いるとは、驚きです。

ちなみに、書き写しに使ったノートは、アピカのCDノートブック プレミアムです。「シルクのような滑らかさ」
確かに、ツルッとした紙です。
万年筆には、そういう、ツルッとした紙がいいのだそうです。
が、書いていてあまり気持ちいいとは思いませんでした。かといって気持ち悪くもないです。私には特になんの印象も残らない紙でした。
程良い抵抗感のある紙が好きだからかもしれません。スマイソンのフェザー・ウェイト・ペーパーのほうが気持ちがいいです。他、ミドリのMDペーパーとか。
モレスキンの紙も書き心地そのものは好きなのに、ほとんどのインクが裏抜けするのが難点です。

書き心地が好きな紙で書いたら、写経も楽しかったのでしょうか。

インクはモンブランのオイスターグレーです。吸入してから時間がたったので、ペンの中で水分が抜けたのか、色が濃くなりました。

2012年3月12日月曜日

猫一匹描けねえ

娘と録画してあった「歴史秘話ヒストリア」の葛飾北斎の回を見ました。

http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/117.html

うちの違いのわかる幼児(前回記事参照)によれば、この番組は、音楽がいいので好きなんだそうです。
この番組の曲って梶浦さんだよね。さすが違いのわかる幼児(^_^;)
テーマ曲の、キラキラキラ~☆ってなるところが、特に良いのだそうです。言いたいことは何となく分かる。

さてその葛飾北斎の回ですが、面白かったです。京都で北斎展やってるって知らなくてショックでした。浪裏の展示はもう終わったっぽい( ;´Д`)

北斎が八十代半ば過ぎて、この年まで描いても、猫一匹上手く描けねえって泣いたという話にはシミジミとしました。
うまい人って目も肥えるから、自分の技量が自分の理想に永遠に追いつかないんだろうな。
それに娘のお栄さんが、「自分の未熟さに気づくのが成長の第一歩よ」とお父さんを励ましたっていうのも、只事じゃない感じですが。娘さんも絵描きだったんだな。
そういう時に「お父さんは十分上手いわよ」とか言われてもなー、なんだろうしね。

しかし、うちの違いが分かる幼児は、「おじさん絵がうまいのに、泣かなくていいのにね! かわいそうね!」とオタオタしていました。
うん、まあ、上手いよね。でももっと上手くなりたかったんだろうねー、と話すと、娘は「猫はむずかしいもんねー」と、しみじみ共感していました。
次元ぜんぜん違うのに噛み合っているかのように考えているところが子供の思考法の面白いとこです。
というか全然わかってねえし。
猫は描くの難しいよねって話じゃなくてさ!
まあいいか。

そんなことを話しながら、娘と猫の絵を描いていました。にゃーお。

日々、そんなことばかりで平和に過ぎて行くのはいいのですが、私の創作はいっこうに進まないわけで、筆も衰えるばかりでしょう。
雑文くらいは書こうかと思って、今日はこうして日記を書きましたが、わざわざ書くような話でもないので、うおー、と思います。

それが仕事とはいえ、娘に手伝ってもらってエロ絵を描いてた葛飾北斎ってすごいな。
自分の芸事のために家族も投げうつというか、遠慮なく巻き込めるぐらいの俺ワールドがある人でないとあかんな、という気が何となくします。
将来、娘に手伝ってもらってエロ小説書こうって、一ミリも思わないもんな。むしろ罰ゲームすぎて致死レベルだよ。そこだけとっても北斎スゲえって思います。
でも、締め切りギリになったエロ漫画のトーンを、マンガ描く娘にやってもらうとか、そういう猛者は案外いるんだろうけどね。なんかどっかで、親子っていう関係を、同じ道の人っていう関係のほうが、上回っちゃうんだろうね。想像だけど。そこまで芸事に身を捧げてない自分を感じるので、だからアカンのだなあとか反省もするんですが、そこを改善していいものかどうか。つくづく凡庸です。だから比較的無事に生きてられるんだろうか。偶然か?

今日は一日のうちに、すごい八十代の人のことを二度も考えました。八十越えて元気で生きてることだけでも凄いと思いますが、衰えぬ創作意欲や、向上心は、さらに凄いと思います。
世の中、凄い人ばっかりだね。

趣味の文具箱22

趣味の文具箱22を買いました。

趣味の文具箱 22 (エイムック 2352)趣味の文具箱 22 (エイムック 2352)

伊集院静さんのインタビュー記事が巻頭のほうにあり、興味深く読みました。
氏はモンブラン149(万年筆です)の愛用者とのことですが、

「小説やエッセイはボールペンで書いている。今、月に四〇〇枚の原稿を書かなければならない。できるだけ疲れを少なく、速くこなすためにはボールペンの使い勝手がまさる」
愛用のボールペンは三菱鉛筆のジェットストリーム。細身の丸軸はペンダコにやさしく、油性インクはなめらかに原稿用紙を滑ってくれる。

と、ありまして。

あれっ、て。
私、ジェットストリームだと手が疲れるので、万年筆に持ち替えたんですが、ジェットストリームのほうが実は疲れないの(;´Д`)?

そこ、自分の感覚を信じるところですか?

ボールペンだと筆圧かけちゃうので、指が痛くなるんですよね。悪いのは私の筆圧であって、ペンじゃないんじゃないかというのは、うっすら思うけど、でもどうしたらいいのか。


ところで私は、本や雑誌を見る時、気になったページには付箋をはる癖があります。
だから、読み終えた雑誌には、紙のヒラヒラがいっぱいついています。
後でそのページだけ読み返してみたりするんですが。
昨日、趣味の文具箱22の、付箋が貼ってあったページをなにげなく開いてみたら、そこに付箋を貼った記憶が全くないページで、記憶力ヤバいヤバすぎって焦ったんです。

後で分かったんだけど、それは私じゃなくて、娘が勝手に付箋を貼ったのでした。
24ページ目でした。表紙の写真に写っている緑色のペンが紹介されているページです。
アウロラというメーカーの、マーレ・ティレニアという万年筆でした。
娘に、なんでこんなとこに付箋を貼ったの? と尋ねたら、
「このペン欲しいから買ってもらおうと思って( ・∀・)」と言うので、値段を一応見たら、13万4400円でした。
椎堂オカンが一瞬でノーコメントになったことは言うまでもありません。

娘には以前、甘やかそうと思って、LAMY abcという、子供向けの万年筆を買い与えました。あれがあるやん、て諌めたら「だってあれは子供用でしょ?」と返されました。
どういう意味でしょうか。うちの子は、いつから子供じゃなくなったんでしょうか。
そんな違いが分かる幼児いらんねん。

一般に、「子供には、子供だましではなく、本物を見せよ」などと言いますが、子供に本物を見せると、本物を欲しがりますので危険です。子供はけっこう賢いのです。どっちが良いものかは、教えなくても、ちゃんと見抜きます。
だから、子供にはとりあえず子供だましのものを見せておくべきです。
私はそういうことを今回学びましたね。

赤ん坊だって、携帯電話の形をした玩具よりも、実際に通信可能な本物の携帯電話を見分けます。テレビのリモコンだってそうです。どれが偽物(玩具)で、どれが本物か、一瞬で見分けます。
携帯電話を乳幼児から守るべく、我が家では機種変更したあとの、残骸のほうの電話を娘に「ほんものだよ〜(*´∀`)」と言って与えましたが、ちょっと触ったあと、「ちばう!!」とかいって床に叩きつけられました。
そうさ、ちばうさ! どうしてわかった。
本当に不思議です。リモコンも携帯電話も、稼働中のものでなければ、乳幼児は納得しないという事実は、我が家だけでなく、どの家庭でも問題視されていることです。
この問題に解決策はありません。電話帳に登録してある友人や上司や取引先に、うっかり子供が電話をかけないようにするには、うっかり電話をそこらへんに放置しない事しかありませんが、大人は確実にうっかりします。

たぶん人間は生まれつき割とかしこいのだけど、生きてるうちに、だんだんバカになるんですよね。

うちの娘が何を根拠にLAMY abcよりマーレ・ティレニアのほうが「いいもの」だと思ったのかは謎です。子供たちと話していると、時々ほんとうに不思議なことを言う人達です。

娘が、「みどりのやつがダメなら、こっちでもいいよ♪」と、ファーバーカステルのペンオブザイヤー2012 ゴールドオーク39万9000円を指さしたので、趣味の文具箱22は、本棚の一番高いところに隠しました。

ずっと以前になんとなく書いた「木剣の時代」で、イルスの兄貴のジンが、おとんの剣を盗むシーンがありますが、なんで盗むのか何となく今さら納得がいってきた。そっちのほうが本物だからだな。仕事用のケータイを子供にとられるみたいなもんだと思います。ヘンリックも、うっかりしちゃったんだね。いまさら親近感湧くわ……。

ロカノンの世界

本を読みました。

ロカノンの世界 (ハヤカワ文庫SF)
ロカノンの世界 (ハヤカワ文庫SF)

アーシュラ・ル=グウィンは、私には大好きな作家さんなんですが、全作品を読破しているわけではなく、むしろあんまり読んでいないほうかもしれません。
「ロカノンの世界」も初めて読みました。
要約すると、はだかのオッサンが異星をうろうろする話で、こんな話だったのかと、読みながらびっくりしていました。
ル・グウィン氏の、ハイニッシュ・ユニバースというシリーズの一作で、これと同シリーズの「闇の左手」という作品は、何年か前に読んだことがあり、確かに同じ世界観(宇宙観?)の作品なのだなあと思いました。
ル・グウィン氏の作風の面白いところは、SFで、いかにもSFっぽい説明がくどくど書いてあるようでいて、肝心のところは行間を読んで空想する仕様になっているところかな。
出身の星系が違うものどうしが連合した宇宙連邦的なものが存在しているふうに書いてあるけど、それが具体的にどういうものかは書かれていないし、主人公ロカノンが降り立った世界の人々が、かなり短命であるようだけど、平均寿命がどれくらいとか、そういうことも具体的には一切書かれていない。
種族的に全く交流のなさそうな異星に、人類そっくりな知的生命体がいることの謎も、特に触れられていないし。ハイニッシュ・ユニバース・シリーズの別作品には解説があったかもしれない。
「闇の左手」で、そういうヒューマノイドタイプの異星人は、かつて移民してきた地球人の末裔なのだというような設定があったような、なかったような?

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))
闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

「闇の左手」は、とにかく寒い星の話なんだという印象があり、その星の人は普段は性別がなく、繁殖期だけ性徴があらわれます。男になったり女になったりする。
そういう星に調査に来ていた地球人の黒人男性が、いろいろ巻き込まれて、厳寒の荒野を旅するハメになるという話だったと思う。
私は、彼の旅の道連れになる現地人の、エストラーベンという人物の、愛想がなくて、何となく常にムッとしているところが好きでした。
全部読み終えてから気づいたんだけど、エストラーベンてもしかして、この話のヒロインだった?(鈍い)
私はなぜかずっと、エストラーベンはオッサンだと思って読んでいたんです。地球人の若い兄ちゃんが異星のオッサンと厳寒の荒野を旅する話と思っていた。
エストラーベンは女性(というか主人公にとっての恋愛対象)なんだと思って読むと、また全然違った危うい話だったのかもしれません。私、もう一回読んだほうがいいよね……。
まあ、なんつか、性別が無い世界なんだから、そのへん気にしなくていいのか、なんというか、不思議な話を書く人だよ。

SFも面白いんですが、私にはアーシュラ・ル=グウィンは、「ファンタジーを書く人」であり、「ゲド戦記」の人、なのですが、このほど氏の新作シリーズ「西のはての年代記」を読み終えまして、自分の中ではこの「西のはての年代記」が、氏の最高傑作ではないかなと思えました。

ギフト (西のはての年代記 (1))ヴォイス (西のはての年代記 2)パワー (西のはての年代記 3)


齢八十にして、全く新しい異世界を創造し、その大長編を脱稿するというのは怪物的です。内容的にも、老衰を全く感じない筆致でしたし、それでいて年齢による円熟は感じられます。
平たく言うと、「ゲド戦記」より、「西のはての年代記」のほうが、綺麗にまとまっていて、上手い、と感じます。
それはスゴイことだなあ。八十歳になっても、成長する人は成長しています。

私なんてまだアラフォーですが、すでに長編ファンタジーはしんどいです。
新しい異世界を創ろうという活力が自分にあるかどうか全く自信はありません。
現実には、若いころに創ったものの貯金を切り崩して食ってる感じじゃないでしょうか。
まあ、そのへん、創作人としての格の違いというものかもしれません。
「西のはての年代記」を読むと、「アタシももうトシだから」っていう言い訳は通用せんなぁ、と、しみじみ思います。年月を重ねても、腐らず熟成する書き手というのはいるものですね。

何作か読むと、ル・グウィン氏の作風のパターンとして、「逃避行」があるのだなと気づきます。何かから逃げて、あるいは、何かを探して、ほぼ遭難したような命からがらの旅をする主人公が、繰り返し登場してきます。
氏のデビュー時代の作品である「ロカノンの世界」もそうですし、「闇の左手」も逃避行の物語でした。「西のはての年代記」の完結巻である「パワー」もそうです。
ファンタジーとは、旅を描く物語であるという考え方が、文学の一つの見方としてあるそうです。旅や冒険、逃避行は、人生を象徴するものだからです。そういう意味では、ファンタジーは登場人物の一生涯を描く分野であるという考え方もできます。

ファンタジーの書き方わかんない、書きあぐねている、という人がもし居たら、ある旅の始まりから終わりまでを書いてみたらいいのではないかと思います。
それがファンタジーの全てではないですが、わかりやすく、描きやすい物語構造であるのは確かです。そして、分かりやすいからといって、底の浅いものでは決してありません。ル・グウィン氏のようなSFファンタジーの大家でも、一生をかけて描いてきたのが、紀行ファンタジーというジャンルです。

私にとっては長年、小説を書くことは、空想の異世界に旅をすることでした。旅に出るのは億劫ですが、行けば確実に楽しいです。
「西のはての年代記」は完結しましたが、ル・グウィン氏はまた新しい旅に出るのでしょうか。ファンとしては、そうであってほしいものです。
私もまた旅に出ることができるでしょうか。そうであってほしいものです。私の残りの人生が、豊かなものになるように。

2012年3月6日火曜日

映画三昧

寝込んでいる間、DVDで映画を観ました。
子供の頃から、風邪のときに、寝床で本を読んだりする癖が抜けない。

「ベオウルフ」
「天使と悪魔」
「南極料理人」
「エリザベス ゴールデンエイジ」
「英国王のスピーチ」
「ナイトミュージアム2」

残念だったのは「ベオウルフ」と「ナイトミュージアム2」だった。
でも、「ナイトミュージアム2」は、アメリカ人の子供向けということでギリギリOKだった。なんかすごく、とにかくアメリカ。

「ベオウルフ」はギリギリNGだった気がする。結局なんだったの? 映像的には面白かったんだけど、ストーリー的につまらなかった。アンジーは怖い女だよという話?

「エリザベス ゴールデンエイジ」は続編なのだけど、前作が好きだったので観てみました。あー、まあ、こんなもんかなという感じだったけど、エリザベス朝後半の消化試合みたいな続編だった。アマルダ海戦なのだから、もっと盛り上がってもよさそうなものだが。私の体調がよくなかったせいか。「恋愛とか言うてる場合かエリザベス!」と30回ぐらいツッコミいれてた。あと、フェリペ2世が気持ち悪すぎた。こんな人じゃないんじゃないか? まあ、悪役だから……? ウォルシンガムは人間味があってよかった。メアリ・スチュワートがキレて叫ぶところも良かった。
でも何か全体的に歴史コスプレ劇で良かったです。

「天使と悪魔」は、この映画作っていいなら、何作っても平気だなと思ったよ。
過激な作品です。でも、エンターテイメントに終始していて、よく作ってあるなと思いました。
ユアン・マクレガーの顎が割れていることばかりが気になってしまった。別にかまわないと思うのに、ずっと顎ばかり見てしまった。

「英国王のスピーチ」は面白かった。地味な作品だけど。
ライオネル役の俳優さんが、「エリザベス」のウォルシンガム役と同じ人物なので、うわ、ウォルシンガムまた出てるって思った。(いい俳優さんです)
「パイレーツ・オブ・カリビアン」のキャプテン・バルボッサも同じ人なので、ライオネルは本当にただのいい人なのかって、ずっとハラハラした。(いい人です)


「南極料理人」は、邦画でして。私は邦画はあまり見ないほうなのですが、別に嫌いということではないんです。
「南極料理人」は面白かったです。ストーリーといえるような、明確なストーリーラインはなく、雰囲気もの作品て感じなんですが。
観ているこっちが病気でしたので、元気そうなオッチャンや兄ちゃんたちが、南極でがんばっていて、ごはんを沢山食べているのを見ると、私も早く元気になりたいなと思いました。あと、主人公の、ぼやーっとした親ばかぶりが他人ごととは思えず、私も内心いっしょに「ゆかーーーー(;´Д`)!!」って叫んでました。娘さん可愛いですね。可愛げはないけど。
あそこまでいくと、なにひとつストーリーらしき起伏がないっていうのが、あれはあれでいいものなのかなって思えました。あそこにいきなり遊星からの物体Xとか落ちてきても迷惑だもんね。

ストーリーの構築っていうのは、事件を起こして解決。事件を起こして解決。伏線を張って、オチ。謎を提示して、解き明かす。問題提起して、その結論を提示する。という、その連鎖であったり、入れ子構造であったりというのが、ひとつの作法であると思うんだけど、その構造がすごく希薄であるとか、全く存在していない作品ていうのも、時にはあります。そういうのを面白くするのは難しいように見えます。ただの体験談みたいになります。でも、面白いものは、面白いので、これにはこれの技法があるのだと思います。
でも、私にはその技法がわからないんだよね。
だから、なんにも起きない話を書いてみたいと思うんだけど、そう思って書いてたカルテット学院編でも、あれはあれで色々起きてるからさ。

物語を作るって、なんとなく適当にやってるけど、難しく考えると、難しいですね。

NNR管理から引退

NNRの管理人から抜けました。
近年では事実上、管理者ちうても名目だけで、何の役にも立っていない人だったのですが、そのままずっと行くのではまずいので、正式に引退ということです。別にいいわよって言ってもらったけど、まあ、こういうのはケジメです。だってあまりにも私が働かないんだもの(;´Д`)

私にとっては、創設から携わって、いろいろ勉強になる面白いサイトでした。何やかんやと大勢の方にお世話になったり、励ましてもらったりしてきたと思います。今、改めまして、ありがとうございます。今後も引き続き、よろしくお願いします。

2012年3月2日金曜日

実は風邪だった

とうとう花粉症が始まった、アレルギー性の咳喘息だわああ、と思ったら、風邪でした。熱が出たので分かりました……。

この時期、アレルギー持ちにとっては、風邪だかなんだか分かりません。

花粉症って、出始めの頃は、「これは風邪よ!」って現実逃避する人が多いっぽいですが、いったん花粉症が既成事実化すると、つい、なんでもかんでも花粉症のせいにしてしまいます。

なーんだ風邪かあ。
でも掃除はちゃんとしようね……。

発熱ちゅう、食欲がないので、キュウリのぬか漬けと、干し梅を齧って、水分を多めにとってました。漬け物ってすごいなあ。食欲がなくても喉を通りますもんね。

今日はもう回復期ですので、さっさと治りたいと思います。

っていう、100%日記じゃんていう記事を書く必要あんのかって、自分でも思います。Google+で足りてる?