大文字が終わりました。
今年は、遠くからチョコっと見える「大」の字を眺めて満足しました。
地元・京都の人は、五山の送り火を眺める穴場を知っていたりするようです。意外なところから見えたりする場合もあります。
近くから眺める送り火が、やはり迫力があると思いますが、思わぬところからチラッと見える送り火も、それはそれでオツなもんです。
今日は中学以来の友人と会ってきました。皆、就職や結婚などで各地に散っているので、たまたま予定が合う人しかお互い会えません。
今回も久しぶりに会いました。
私は参加できなかった同窓会の話を聞かせてもらいました。
その中で、「年をとったのがショックだという話をしていた人がいたよ」という話題が出ました。
年を取るのって、ショックな事なんでしょうか。
私はすでに半ボケなのか、自分が何歳なのか時々わからなくなります。
具体的な数字での年齢って、あんまり関係ない気がして、公的な文書に年齢を書かないといけない時くらいしか思い出しません。
年を取るのを無視してるわけではなくて、ひしひしと寄る年波は感じるんですが、それが嫌だって、あまり思わないです。
なんでだろうな。
やはり、ひとつには、小説を書くせいな気がします。
その年齢にならないと書けないものっていうのが、どうもあるようで、年々上達するというのとは違いますが、新しい発見があって、年を取る楽しみがあります。
年齢とは違うけど、最初に出産したときに、「これで出産シーンも安心して書けるな」と思いました。それは14歳の時の私には書けないものでした。それと引き換えに、何かを失っているんだろうけど、それまで書きあぐねていた関門の扉が開くこともあるかもしれません。
ものを書く人間の気楽さです。
あと、年を取る楽しみがあるのは、着物を着る人にも独特のものかもしれないです。
洋服だって同じかもしれないですが、私はそっちは鈍いので。
私の好む着物の柄は、地味というか、渋いものが多いです。ある程度、年齢を重ねて老けないと、似合わないっていうのが多くて、憧れの柄行きを着こなすには、早くお婆さんにならなくちゃ、せめて50代くらいにはならないと、というのがあって、だからといって早く年老いるのは無理ですが、老けたら老けたなりの楽しみがあるわけです。
以前、浴衣を仕立ててもらおうと、着物屋さんに行って、担当の店員さんに、松煙染めの反物を、あれがいいと試着を頼んだら、「あれはあきません」とリジェクトされました。白抜きで模様が染めてある、グレーの反物です。
な、なんでだよう!
びっくりして聞いたら、「これは20代の人が若さで着こなすか、60、70代の人がお似合いになるものです。椎堂さんぐらいの中途半端なお年の人には、お勧めできません」と、そんなハッキリ言うなっていうぐらいハッキリ言われ、それでも顔映りを見てみるぐらいええやん、減るもんやなし! と、試してみたら、びっくりするぐらい似合いませんでした。
「あきませんね」と、担当のお兄ちゃんがキッパリ言うので、そんな正直な接客で怒られたりせえへんのかと心配になるほどでした。
その時は、お兄ちゃんが勧める別のを買いましたが、これが年相応というのを着ると、不思議とよく似合うもんです。
「お婆さんみたいなのは、お婆さんになってから買いにきはったらええやないですか」と、お兄ちゃんがしれっと悪びれもせず言うので、確かにそうやなと納得しています。
そのほうが、生きる楽しみや張り合いがあるよね。
年老いるのが怖いというのは、死が怖いということなのかな。
死は怖いかもしれません。
死んだらもう、何もできない気がするし。
死んだら一行だって書けない。
友達とも会えない。
着物だって着られないし。
しかし、率直がモットーの店員のお兄ちゃんによれば、お店のお客さんで、「あの世で着るから」と言って、自分の死装束として、着物や帯を沢山買っていった老婦人がいたそうです。
その方は亡くなりました。一番気に入った大島紬を着て棺に入り、他の死装束はもう一つ別の棺にいれて、同時に荼毘に付してもらったそうです。
大変、贅沢な話ですけど、いかにも着倒れの死に様って感じで、格好いいですね。
「今頃、あの世で着て楽しんではるんやないですか」と、お兄ちゃんは真面目な顔して話していました。
どこのどなたかは存じませんけど、そうだといいなと思います。
ことによれば、死んだ後にしか着こなせないものっていうのも、あるのかもしれないですね。
なんだか変なファンタジーだけど。
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