自分の書いた新しい原稿を読みたいなと思う。そういうのは「書きたいな」というのとは少し違う感覚なのだけど、結果的には同じかもしれない。書かないと読めないわけだから。
新作の萌芽が頭の中であると、それを書かれた物として読むためには、自分で書くしかない。
書くのは大変な作業なので、誰かが代わりに書いてくれればと思うが、自分で書かなきゃ、自分の読みたい作品にはならないのだ。
今、書きたいなと思っているのは、緑滴る春の森、たぶん、書きかけで放ってあるシェルの番外編「西南回廊の開放」だろうと思う。
あれを書こうが書くまいが、どっちでもいいような気はするが、書きたいなら書けばいいとも思う。
執筆の意欲というのは、重い玉を転がすようなもので、最初が一番重い。初めに書くものは、書きたい物がいい。それで執筆の気分に立ち返れば、あとは転がり始めたのを止めない限り、筆は走り続ける。経験的には、ずっとそうなのだ。
呼び水になる作品は何でもいい。書きたい物なら。
「西南回廊の開放」はシェルが故郷にいる時の話で、学院に人質として旅立つよりも前の話なのだが、学院編ではちょっと痛い、ヘタレで甘い不思議ちゃんみたいなシェル・マイオスが、故郷の森では確かに稀有な力を持っていたというような話であり、彼には彼の部族なりの、支配者の器があるという話かもしれない。
要約すると、シェルは人の気持ちが分かる子だというだけの話なのだが。
私は子供の頃からずっと書いている、シェル・マイオスというキャラクターがずっと苦手で、掴みづらかった。あらすじ上の役割や、キャラクター性などは、他のキャラクターと同程度に決めてあるし、シェルは私の親友の子供の頃の様子が着想の源にあり、言わば現実のモデルがいるわけで、書きやすいはずだった。
でも、なぜかずっと書きにくかったのだ。何か足りないような感じがして。
やっとまともに書けた気がしたのは、「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」の時のシェルだが、あれも、とっかかりを掴んだだけという気がする。もうちょっと習作を重ねて、自分の中での、あの人物を書く技巧を完成させないと。
最近になってシェルが書けるようになってきた理由は、たぶん私が子供を育てるようになったからだと思う。
シェルはちょっと不思議なところのある人物でないといけないのだが、モデルにしていた私の親友には、不思議なところは無いのだ。天然な人なので、マジボケは面白いのだが、シェルはマジボケな人ではなくて、不思議な人でないと、物語上困る。
誰もが子供の頃に持っている力を、大人になってもずっと持っているような人なのだ。
シェル・マイオスは優しくて、人の気持ちが分かる。既成の概念に囚われない。いつも希望を持っていて、天真爛漫で、馬鹿のようにも見えるが、実はとても明晰な人物である。
何もわかってないようでいて、全部分かった上で、天真爛漫なのが、彼の良いところであり、キャラクターとしての力なのだが。
それは良い意味での、子供っぽさだと、子供を見ていると思う。
シェルを書くには、素体である私の親友の子供の頃に、うちのムスメや近所のちびっ子を混ぜて、なんやかんやすればいいというのが、最近分かってきて、ああ、これは書けそうだぞ、と思ったのだ。説明になってないが。
そのように、執筆の勘所は、時々理屈でなく掴めたり、分からなくなったりする。分かったような気がした時に、習作を残しておくと、後でそれを読み返すことで、執筆の勘所を思い出すこともできるので便利だ。
執筆の勘所って、何か言葉では説明できない、名状し難い気分であって、行間の空気みたいな物だろうと思う。それそのものをメモして残す事はできないので、その空気を行間にとじこめた習作を書くしかない。絵でもいいけど、あいにく私は絵が下手なので、コンセプトアートの代わりに、習作を書くしかない。
不自由だけど、文章で絵を書いているのだと思う。
「西南回廊の開放」はシェルが老女を看取る話だ。人が滅多に死なない、うちの作品群の中では、珍しく、死を書く話なので重いが、情景としては、花咲き乱れる春の森で、「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」から続く、とてもロマンティックな画面である。
春の新緑の中で老婆が死ぬという話で、たぶん世代交代を描く話だろう。
自分でも、書かないと分からない物があって、創作は不思議だ。
それだけ私の作品認識が弱いということなのだが、実際、書かなきゃわかんないんだから、それはもう、どうしようもない。
書いて分かるのなら、ただ書けばいいと思う。
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